【ゲーム】家庭用ゲームの歴史part3【ソニーの台頭とゲームハード三国時代】

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現在までに発売された家庭用ゲームの内、任天堂、SEGA、そして新たに参入したソニーによって発売された第五世代据え置きゲーム機及び第六世代据え置きゲームハード、そして任天堂とSNK、バンダイによって発売された第四世代携帯ゲームハードについてわかります。

こんにちは、syuyaです。

家庭用ゲーム機の歴史を辿っている本記事シリーズですが、いかがでしょうか?

世界最初のゲームは、アメリカで1972年に発売されたマグナボックス・オデッセイでした。

その後、アメリカゲーム市場を全体を巻き込んだアタリ社によるゲームハードAtari2600が引き起こした”アタリショック”を経て、アメリカのゲーム市場は衰退。

ゲーム開発の主戦場は日本に移りました。

その後、黎明期のゲーム産業において、革命的なゲームハードであった”ファミリーコンピューター”を開発した事により、京都の娯楽用品店であった任天堂がゲーム産業の王者となります。

その後、様々なゲーム会社が参入した第四世代ゲームハードの首位を巡る戦いにおいても、王者任天堂の発売した”スーパーファミコン”が勝利するという結果に終わりました。

更には同社より発売された携帯用ゲーム機であるゲームボーイも、

同ハードより発売された”ポケットモンスター”シリーズの人気に後押しされる形で世界的な大ヒットを記録します。

まさしく、ゲーム業界においては”任天堂の時代”とも呼べる任天堂一強時代です。

このようにして絶対的な立場を確立した任天堂ですが、続く第五世代ゲームハード開発では思わぬ強敵が出現します。

この記事では、そんな驚天動地の第五世代ゲームハードの開発競争と、長年のライバルである任天堂とSEGA、そして新たに現れたSONYによる”ゲームハード三国志”についてご紹介します。

1994年:ソニーよりPlayStationが発売される

PlayStationは1994年に、ソニー・コンピューターエンターテイメントから発売された第五世代ゲームハードです。

通称”プレステ”、または”ピーエス”。

販売価格は39,800円。

PlayStationの企画は、元々ソニーの社員であった久夛良木健(くたらぎけん)氏が、任天堂に持ち込んだCD-ROMに対応したスーパーファミコンの周辺機器の企画が元でした。

早い段階からゲーム機のブームの到来を予感していた久夛良木氏は、なんとか自社であるソニーもゲーム産業に入り込めないかと機会をうかがっていました。

しかし、ソニーは家電の分野での開発ノウハウは持っていましたが、ゲームハード開発に関しては全くの素人です。

そこで、当時既にゲーム産業の王者となっていた任天堂に、スーパーファミコンに対応したSONY製のCDアダプタの企画を持ち込みます。

当時はまだゲームソフトにおいてロムカートリッジが主流であり、CD(コンパクト・ディスク)はあまり注目されていませんでした。

しかし、久夛良木氏はCDのポテンシャルを早くから見抜き、スーパーファミコン用のCDソフトを自社のアダプタを通して発売させることにより、ゲーム業界に参入しようとしたのです。

そしてこのCDアダプタの名前こそ、後にハードの名前となる”プレイステーション”だったのでした。

最初はこの契約を承諾した任天堂ですが、1991年に突如として

スーパーファミコン用のCDアダプタはオランダのフィリップス社から発売される

とし、SONYとの契約を破棄しました。

この突然の心変わりの理由には諸説あり、他のゲーム会社への牽制であったなどの説がありますが、定かではありません。

しかし、当然いきなり冷や水を浴びせられたSONYの側は大激怒。

それならば、自分たちでゲームハードを作ってやる

という事で、ソニー初のゲームハード”PlayStation”の開発が始まったのでした。

こうして始まったPlayStationは、あらゆる意味での任天堂型ゲームハードからの脱却を目指します。

まずソフトウェア面について、これまでゲームソフトとして主流であったROMカートリッジから規格を変更し、CD(コンパクトディスク)のソフトを採用した最初のゲームハードでした。

これにより、カートリッジ型ソフトよりも大容量のデータを扱う事が出来るようになり、その結果美麗な3Ⅾグラフィックを表示する事が可能となります。

PlayStationが初となったCD型のゲームソフトは、後にゲームソフトの規格として標準のものとなります。

CDに変更したことにより問題となった、ゲームのセーブデータをどこに保存するかという問題は、別売りの外付けメモリーカードを販売する事によって解決します。

そして、PlayStationが大成功した一番の要因とも言えるのが、歴史上ゲームハードの売り上げに大きな影響を与えるサードパーティー(ゲームハード開発会社以外のゲームソフト開発会社)の参加を積極的に促した事でした。

カートリッジ型ソフトと比較して、製造原価が安くて済むCD型ソフトを採用したPlayStationは、ゲームソフトを開発する会社にとってとても参入しやすいゲームハードであり、結果サードパーティーに好まれます。

一方この頃の任天堂は、ゲームハード産業首位の立場を利用して、自社ハードでソフトを販売しようとするサードパーティーに高いロイヤリティと、厳しい品質基準を設けたため、サードパーティーに避けられるようになってしまいました。

これにより、多数のサードパーティーによる名作ゲームがPlayStationより発売されることとなります。

PlayStationより発売された代表ソフト

サードパーティーに広く自社ハードでのソフトの発売を許可した結果、数多くの名作ソフトがサードパーティーにより発売され、後に人気シリーズとなっていきます。

コナミにより開発された、主人公で特殊部隊員であるスネークを操作し、敵の基地に敵に見つからないように潜入、スニーキングゲームという新たなゲームジャンルを切り拓いた”メタルギア・ソリッドシリーズ

カプコンにより発売された、感染するとゾンビになってしまう悪魔のウィルスであるt-ウィルスが蔓延した洋館に迷い込んだ特殊部隊の隊員を操作し、洋館からの脱出を目指すゾンビサバイバルゲームである”バイオハザードシリーズ

スクウェアにより発売された、ファミコンで第一作目が発売されて以降シリーズとしてナンバリングタイトルが発売され、シリーズ最高傑作とも名高い”ファイナルファンタジーⅦ”がPlayStationより発売された”ファイナルファンタジーシリーズ

エニックスにより発売された、同じくファミリーコンピューターより第一作目が発売されて以降、王道JRPGシリーズとしてナンバリングタイトルが発売されてきた”ドラゴンクエストシリーズ

など、後に大ヒットシリーズとなる作品達を作る事になるサードパーティーを、PlayStationに誘致したソフトを開発させる事に成功しました。

この有名なサードパーティーのPlayStationへの流入は、ハード自体の盛り上がりを加速させます。

結果として、PlayStationは大ヒットを記録し、世界での総売り上げは累計1億240万台を記録。

長らく任天堂のファミリーコンピューターが所持していた、家庭用据え置きゲーム機の売り上げ記録を大幅に更新しました。(ファミリーコンピューターは6,191万台)

こうして、後に発売される任天堂のNINTENDO64、SEGAのセガ・サターンとの間に起きた第五世代ゲームハード商戦は、新参者であるSONYが勝利する事となります。

このPlayStationの圧倒的勝利により、それまでのゲーム産業における任天堂の一強時代が終焉を迎えます。

これにより、任天堂はゲーム開発の戦略転換を余儀なくされました。

代表ゲームソフト

クラッシュバンディクー

パラッパラッパー

ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち

ファイナルファンタジーVII

バイオハザード

メタルギアソリッド

ペルソナ2 罪          等他多数

1994年:SEGAよりセガ・サターンが発売される

セガ・サターンは1994年にSEGAより発売されたゲームハードです。

PlayStationと同じく第五世代ゲームハード機で、日本での販売価格は44,800円でした。

通称はサターン、或いは頭文字をとってSSです。

思わぬ第三の勢力の登場に負けじと、長年任天堂とゲームハード競争を繰り広げてきたSEGAも第五世代ゲームハードを発売しました。

名称である”サターン”の由来は、SEGAにとっての”6番目”の家庭用ゲームである事から、太陽系第6惑星である”土星(サターン)”の名称を名付けたという事のようです。

ソフトとしてはPlayStation同様にCD(コンパクトディスク)を採用した事により、低価格・大容量のゲームソフト開発を可能とします。

そしてセガサターンの際立った特徴としては、時代を先取りしたデュアル・プロセッサを内蔵していた事でした。

デュアル・プロセッサとは、一つのコンピューターシステム内に二つの独立したCPU(プロセッサ)が搭載されているシステムの事です。

デュアル・プロセッサにより、処理能力が大幅に改善され、高度な処理が可能となりましたが、ゲーム開発においてその複雑さを増してしまう要因となりました。

そして、初期の段階においてはこのデュアル・プロセッサの利点を活かせるゲーム開発者はおらず、宝の持ち腐れとなってしまったのも事実です。

しかし、デュアル・プロセッサは使いこなせさえすればゲーム開発者にとって強力なツールである事も事実で、実際に後の世代のPlayStatio3などのゲームハードはデュアル・プロセッサを搭載しています。

セガ・サターンのスペックとしては、他の第五世代ゲームハードに比べて3Dの描写は若干劣るものの、従来の2D描写においては他を圧倒する描写が可能となっています。

セガ・サターンより発売された代表ソフト

セガサターンでは、ハードの特徴を活かした美麗な2Dアニメーションが魅力的なゲームが多く開発され、多くのファンを獲得します。

並行世界での日本の太正十二年(大正十二年)を舞台に、海軍の若き士官である大神一郎を主人公として、ロボットを操作して戦う”帝国華撃団”の少女達とコミュニケーションをとりつつ、帝都に現れる敵を倒していく”サクラ大戦

ゲームアーツによって発売されたRPGで、3Dで作られた背景を舞台に2Dのキャラクターの操作するアニメと3Dの融合という技術と、優れたストーリーで話題を呼んだ”グランディア

アーケード版からの移植作で、背景とキャラクターを3Dで描写した初めての格闘ゲームである”バーチャファイター

など、様々な名作ソフトが発売されました。

第五世代ゲームハード競争としては、新参のSONYのPlayStationに敗北したものの、国内市場に限定して言えば、長年の宿敵であった任天堂の同世代機であるNINTENDO64を上回る売り上げを記録するなど、大健闘したゲームハードであったと言えます。

また、国内外問わずコアなファンを獲得する事にも成功し、あまり一般受けしない、よりディープなジャンルのゲーム愛好家に好まれるゲームハードとなりました。

今なお、レトロゲーム愛好家の中では根強いファンも多い、SEGAの代表ゲームハードとなっています。

代表ゲームソフト

バーチャファイター

サクラ大戦

グランディア

真・女神転生 デビルサマナー     等他多数

1995年:任天堂よりバーチャル・ボーイが発売される

強力なライバル二社が、次世代機である第五世代ゲームハードを発売した後に、王者である任天堂が発売した初の第五世代ゲームハードがバーチャルボーイでした。

販売価格は15,000円です。

近年のVRヴァーチャル・リアリティ)ゲームの走りとでもいうべきゲームハードで、赤いゴーグルの中にある、左右で異なる画像を映すディスプレイを観る事で、映し出された映像が立体に見えるというステレオグラムという仕組みがされたゲームです。

元々は、アメリカのリフレクションテクノロジー社が、LEDを使用したVR技術を任天堂に売り込んだことがきっかけでした。

兼ねてよりVRに興味があった当時の任天堂社長であった山内博社長が、ゲームボーイの生みの親である横井軍平氏に開発のGOサインを出したのが始まりでした。

国内では15万台、世界では77万台ほどを売り上げましたが、

これはSONYのPlayStationや、SEGAのセガ・サターンに比べて大きく劣る売上げでした。

しかし、後に任天堂はバーチャルボーイを本格的な自社製の第五世代ゲームハードとは捉えておらず、ゲームの新たな形を模索した試験機的な性格が強かったと述べています。

事実、このバーチャルボーイのようなゴーグルを用いたVRゲームは、後の時代の2016年にライバル会社であるSONYが、同様のコンセプトを持つゲーム機であるPlayStation VRを発売する事になります。

時代を先取りしすぎた為か、売れ行きこそ優れませんでしたが、バーチャルボーイを開発した事は無駄ではありませんでした。

バーチャルボーイ開発により蓄積された3D技術は、後の任天堂のゲームハードであるゲームキューブやニンテンドー3DSなどに活かされることとなりました。

バーチャルボーイより発売された代表ソフト

任天堂初の3Dゲームであるバーチャルボーイには、後のNINTENDO 64やゲームキューブに通ずる数多くの試験的なゲームが開発されます。

これまでの2Dゲームでは表現できなかったよりリアルなテニスゲームである”マリオズテニス

高い塔にいる敵を、亀のキャラクターであるノコノコの甲羅を用いる事で倒していくこれまでにないマリオゲームである”マリオクラッシュ

落ち物パズルゲームの代表作品である”テトリス”を3Dで遊べることから話題となった”Vテトリス

など、様々な名作がバーチャルボーイから発売されました。

任天堂にとって初の3Dゲームであるバーチャルボーイの開発の経験は、後の3Dゲーム開発に多大な好影響を与える事となります。

代表ゲームソフト

マリオズテニス

マリオクラッシュ

Vテトリス

レッドアラーム

ギャラクティックピンボール   など

1996年:任天堂よりNINTENDO 64が発売される

試験的なバーチャルボーイを経た後、任天堂から発売された本格的な第五世代ゲームハードがNINTENDO64です。

販売価格は25,000円でした。

NINTENDO 64の”64”とは64ビットの事で、CPUのビット数を示しています。

王者任天堂の本格的な次世代機という事で多くの注目を浴びたものの、市場には既にPlayStation、セガ・サターンという強力なライバルが存在していたため、思わぬ苦戦を強いられます。

更には度重なる発売延期に加え、量より質を重視したため、ソフトの数も他のゲームハードに比べ十分ではありませんでした。

これらの要因は、先だって発売されていたPlayStationとセガ・サターンに奪われたゲームファンの奪還に不利に働きました。

加えてPlayStationとセガ・サターン共に、ソフトの記録メディアを従来のロムカートリッジから、最新のCD(コンパクト・ディスク)にしたのに対し、NINTENDO 64は未だロムカートリッジのままでした。

このためソフトの製造原価が他のゲームハードと比べて高くなってしまい、更には任天堂は他のゲーム会社が自社ハードでソフトを発売する際に高いロイヤリティを要求していた為、サードパーティーに敬遠されてしまいます。

これらの要因が重なり、日本国内での販売台数は554万台と言う結果に終わります。

これはPlayStationの1,900万台、セガ・サターンの590万台に及ばず、国内での第五次ゲームハードの競争はまさかの任天堂の惨敗に終わりました。

一方、世界では3,293万台を売り上げますが、こちらもPlayStationの世界販売数である1億240万台には遠く及びませんでした。

それまで”王者”として、日本はおろか世界のゲーム産業を引っ張ってきた任天堂のまさかの敗北でした。

NINTENDO 64より発売された代表ソフト

このように売上自体は振るわなかったものの、ソフトの質に拘っただけあってハイクオリティなソフトが多く、様々な名作ゲームがこのハードから誕生しています。

本体と同時発売であったマリオシリーズ初の3Dゲームであり、”3Dアクションゲームの革命作”とも言われる名作ソフト”スーパーマリオ64”

ゼルダの伝説シリーズの最新作で、時を超えるアイテムである”時のオカリナ”を用いて、子供時代と大人時代を行き来して宿敵ガノンドロフを倒す物語である”ゼルダの伝説 時のオカリナ

スーパーファミコンで発売された人気レーシングゲームであるマリオカートシリーズの最新作で、最大4人対戦が可能な新感覚レーシングゲームである”マリオカート64

外付けの”64GBパック”を用いてゲームボーイの”ポケットモンスターシリーズ”から、育てたポケモンを64に送って3Dで戦わせる事が出来る”ポケモンスタジアムシリーズ

サードパーティーに敬遠されたNINTENDO 64でしたが、ハドソンやコナミといった一部のサードパーティーはNINTENDO 64向けにソフトの供給を続けます。

ハドソンより発売されていた大人気爆弾アクションであるボンバーマンシリーズの最新作である”爆ボンバーマン

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コナミより発売された、”がんばれゴエモンシリーズ”の最新作で、初の3D作品ながらも素晴らしいクオリティで人気となった”がんばれゴエモン〜ネオ桃山幕府のおどり〜

イギリスのレア社によって開発されたFPS(ファースト・パーソン・シューティング)ゲームで、同名の映画のゲーム化作品である”007 ゴールデンアイ

などの名作が発売され、話題となりました。

NINTENDO 64の強みは、その当時発売していた他のハードにはなかった、最大四人で遊べるというパーティ性にあります。

この特性をフルに生かしたソフトが、世紀末であった1998年から1999年にかけて発売されました。

ボードゲーム状のマップでマリオやヨッシー等のキャラクターをサイコロの出た目だけ進ませて、ターンごとに開催されるミニゲームに勝利してコインを獲得し、マップ上に配置されたキノピオからスターを書いとるパーティーゲームである”マリオパーティ”。

そして、1999年に発売されたのが、格闘ゲームの革命児とも呼ばれる新感覚対戦アクションゲームで、マリオやピカチュウ、リンクなどといった任天堂の人気タイトルのキャラクターが一同に会することで話題となった”ニンテンドーオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ(通称スマブラ)”

の2作が発売され、大人気となりました。

これらの作品は後にシリーズ化され、任天堂の看板タイトルの一つとしてファンがつくこととなります。

そして、2001年には後に大ヒットシリーズとなるどうぶつの森シリーズの第一作目である”どうぶつの森”が発売します。

ゲームハードとしての売り上げは振るわなかったNINTENDO 64ですが、後に有名となる数々のシリーズの第一作目が発売されるなど、任天堂のゲームハード史において重要なゲームハードであった事は言うまでもありません。

また、SONYという強敵が現れた事により、任天堂もゲーム制作の方向性を見直さざるを得なくなった事で、後のWiiに代表するような独創的なゲームハード開発へと繋がることとなりました。

代表ゲームソフト

スーパーマリオ64

マリオカート64

ポケモンスタジアム

マリオパーティ

ゼルダの伝説 時のオカリナ

スターフォックス64

ニンテンドーオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ

007 ゴールデンアイ

どうぶつの森    など他多数

1998年:SEGAよりドリームキャストが発売される

Evan-Amos – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20590083による

次に紹介するのは、SEGAより発売されたドリームキャスト(通称ドリキャスです。

こちらは任天堂やSONYなど、競合他社に先んじて発売された第六世代ゲームハードです。

販売価格は29,800円でした。

このハードの最大の特徴は、時代を先取りしたオンライン機能の搭載でした。

今でこそオンラインゲームというのは当たり前となっていますが、

当時はまだまだインターネット黎明期で、光回線はおろかADSLすらありませんでした。

その為、普通にオンライン通信をしようとすると通信料が莫大な料金となってしまう為、

当時の限られたネットユーザー達はテレホーダイなどのサービスプランを契約してネット通信を楽しんでいました。

まだまだインターネットが庶民の暮らしに根付いていない時代に、いち早くオンラインゲームを始めたのがドリームキャストでした。

本ハードを通じて初めてオンラインゲームをプレイし、見知らぬ人たちと一緒にゲームをするという体験をした人も多かったようです。

さらに、ソフト媒体にはセガとヤマハが共同開発した光ディスクであるGD-ROMが採用され、CD-ROM媒介よりも大容量かつ高速度の読み込み速度を実現しています。

このように、何もかもが先進的だったのがドリームキャストの特徴でした。

ドリームキャストより発売された代表ソフト

ドリームキャストからは、その本体のスペックを活かした美麗なグラフィックのゲームや、先進的であったオンライン機能をフルに活用して遊ぶソフトが数多く発売されました。

映画スターウォーズのようなサイエンス・フィクションの世界で、最大4人の仲間とオンライン上で冒険できるネットワークRPGである”ファンタシースターオンライン

また、セガ・サターンで人気となった”サクラ大戦シリーズ”の最新作で、巴里を舞台に活躍する”巴里華撃団”の少女たちと共に敵を倒す”サクラ大戦3 〜巴里は燃えているか〜

前代未聞の人面魚を育成する育成ゲームである”シーマン~禁断のペット~

操作キャラクターが皆剣をもった剣士である新しい格闘ゲームである”ソウルキャリバー

新たなゲームジャンルであるオープンワールドゲームというジャンルを切り拓いたの”シェンムー第一章 横須賀編

など、数多くの独創的なソフトが発売され人気となります。

中でもシェンムーはその優れたシナリオのストーリーに加え、現実世界を模したゲーム世界を好きに移動して、様々なタスクをこなせるオープンワールドゲームの元祖とも呼べる作品でした。

このゲームが後のゲームに与えた影響は凄まじく、後にPlayStation2で発売されるSEGA製のゲームソフトである龍が如くシリーズや、アメリカのゲーム開発会社であるロックスターゲーム社による世界的大ヒットゲームシリーズであるグランドセフトオートシリーズなど、後のゲーム史に残るオープンワールドゲームに多大な影響を与えました。

このように、任天堂やSONYとはまた違った、オリジナリティのあるゲームが発売されたドリームキャストでしたが、2001年に製造の中止が発表されます。

その大きな原因は、市場への供給が追い付かなかったことと、任天堂やソニーなどの競合他社との競争に敗北してしまった事でした。

その後、セガはゲームハード開発事業から撤退し、ゲームソフトの開発のみに専念する事を発表します。

これにより、1983年のSG-1000の開発から始まり、強大なライバルである任天堂やSONYと競った約20年弱のSEGA製ゲームハードの歴史は幕を閉じたのです。

ゲームハード開発からは撤退したSEGAですが、その後もゲームソフト開発は続け、龍が如くシリーズなど数多くの名作ソフトを他社ハードから発売するなど、ゲーム業界に大きな存在感を残し続ける事となります。

代表ゲームソフト

ソニックアドベンチャー

シーマン

シェンムー

サクラ大戦3 巴里は燃えているか

ファンタシースターオンライン

ソウルキャリバー

クレイジータクシー  など他多数

1998年:任天堂よりゲームボーイカラーが発売される

続いてご紹介するのは、任天堂より発売された携帯ゲームハードであるゲームボーイカラーです。

販売価格は6,800円でした。

携帯ゲーム機としては第四世代携帯ゲームハードにあたります。

名称の通り、白黒のモノクロであったゲームボーイに、最大56色の色をつけたカラー画像を画面に映すことが出来るようになりました。

更に、ゲームボーイの完全上位互換機として作られたため、従来のモノクロのゲームボーイのソフトもプレイする事が出来ます。

日本では1,098万台、世界では4,927万台の売り上げを記録しました。

据え置き型ゲームハードでは新興のSONYに思わぬ惨敗を喫した任天堂でしたが、携帯ゲーム機市場においては未だゲームボーイシリーズに匹敵するライバル機の存在しない、一種の独壇場でありました。

ゲームボーイカラーより発売された代表ソフト

ゲームボーイカラーからは、それまでのゲームタイトルの続編を始め、数多くの名作ソフトが発売され話題となります。

ゲームボーイで記録的大ヒットを記録し、続編が待望されていたポケットモンスターシリーズの新作である”ポケットモンスター金・銀

当時から発売されていた”ポケモンカード”のゲームで、ポケモンシリーズの中でも異色のゲームである”ポケモンカードGB

ドラゴンクエストに登場するモンスターを育成して戦わせるゲームで、後に大人気シリーズとなるタイトルの一作目である”ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド

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など、数多くの人気ソフトが発売されます。

ゲームボーイカラーはゲームボーイの拡張版と言った特徴が強く、本格的な任天堂の次世代機は、後継機であるゲームボーイアドバンスまで待たなければいけません。

ですが、ゲームボーイカラーで発売された名作ソフトも多く、レトロゲーム愛好家には好まれるハードとなっています。

代表ゲームソフト

ポケットモンスター金・銀

ゼルダの伝説 夢を見る島DX

ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド

ポケモンカードGB  など他多数

1998年:SNKよりネオジオポケット&ポケットカラーが発売される

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続いてご紹介するのは、SNKより発売されたネオジオ・ポケットです。

携帯ゲーム機としては第四世代携帯ゲームハードになります。

モノクロ版とカラー版があり、一部ゲームソフトはカラー版専用ソフトとなっています。

販売価格はモノクロ版が7,800円、カラー版が8,900円でした。

携帯ゲーム市場において圧倒的なシェアを誇っていた任天堂のゲームボーイシリーズに対抗するべく、据え置きゲーム機であるネオジオを開発したSNKが総力を挙げて開発したのがこの機種です。

ですが、モノクロ版の販売前から、後にカラー版が発売される予定であると宣言していたことなどから、消費者は購入をためらいます。

加えて、モノクロ版の一週間前には上記のゲームボーイカラーが任天堂より発売されるなど、マーケティングにおいての失敗が続き、売れ行きは芳しくありませんでした。

16ビットのプロセッサに加え、カラーディスプレイ搭載と、ゲームボーイシリーズに劣らないスペックを誇っていました。

そして、何よりの特徴は

携帯ゲームで初めてジョイスティックを搭載した

という点にあります。

携帯ゲーム機にジョイスティックをつけるという発想は、後にSONYによる携帯ゲーム機であるPlayStation Portableに引き継がれることとなる先進的なアイディアでした。

当初は好調な売り上げで、結果として日本国内で50万台、世界で85万台を売り上げるも、徐々に任天堂のゲームボーイカラーに押され売り上げが伸び悩みます。

加えて、SNKの強みであった対戦格闘ゲームの熱も1990年代後半には冷め始めていたため、SNKの業績は悪化していってしまいます。

その後、並行して行っていたテーマパーク事業の失敗もありSNKが破産、結果ネオジオポケットシリーズはSNK最後のゲームハードとなってしまいました。

このように、結果だけ見れば企業の倒産という結末に終わりましたが、しかし携帯ゲームに初めてジョイスティックを導入するなど、優れた設計デザインでした。

そのためゲーム機本体が1992年度のグッドデザイン賞に選ばれるなど、一般にも高く評価されたゲーム機です。

現在でもコレクターの間では高く評価されており、中古であっても高値で取引されるゲームハードとなっています。

ネオジオ・ポケットより発売された代表ソフト

ネオジオ・ポケットからは、それまでのSNKの人気タイトルを始めとした数々の名作ソフトが発売されました。

大人気横スクロールガンシューティングゲームである”メタル・スラッグシリーズ”の新作である”メタルスラッグ ファーストミッション

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SNKより発売されている大人気格闘シリーズである”ザ・キング・オブ・ファイターズ(KOF)シリーズ”初の携帯ゲームである”ザ・キング・オブ・ファイターズ R-1(KOF R-1)

”ゲゲゲの鬼太郎”などで有名な漫画家水木しげる氏の描く妖怪たちを写真に収め、その写真をカードとして他のキャラクターとのカードバトルに使用するという斬新なゲーム設計が人気となった”水木しげるの妖怪写真館

など、数多くの名作がこのハードから生まれました。

代表ゲームソフト

キングオブファイターズ R-1

メタルスラッグ ファーストミッション

SNK VS. CAPCOM 激突カードファイターズ

水木しげるの妖怪写真館      

1999年:バンダイよりワンダースワンが発売される

最後にご紹介するのは、玩具メーカーのバンダイより発売されたワンダースワンです。

販売価格は4,800円。

同じく玩具メーカーのタカラ(現在のタカラトミー)との共同開発された機種であり、SNKのネオジオポケット同様、携帯ゲーム市場における任天堂の独占を打破するべく開発されました。

規格・開発には、ゲームボーイの生みの親である横井軍平氏が大きく関わっています。

前述の任天堂のゲームボーイカラー、SNKのネオジオポケットのように、当時の携帯ゲーム機においてはカラー画面搭載である事が標準的となっていました。

しかし、ワンダースワンは敢えてその流れを無視し、

モノクロ画面のみで勝負する

という賭けに出ます。

これは、カラー画面にしない事で製造コスト・技術コストを抑え、消費者の手に届きやすいリーズナブルな販売価格に抑える為でした。

さらに消費電力を抑えることが出来るなど、とにかく省エネの携帯ゲーム機を目指して開発・販売されます。

しかし、携帯ゲーム機全体の潮流であるカラー化の流れに逆らえず、なおかつ他者のカラー携帯ゲーム機も低価格で販売する事が可能となっていた事から、後にワンダースワンもカラーバージョンを販売する事になります。

ワンダースワンの大きな特徴は、縦・横画面をどちらにしても遊べるというギミックです。

これは、今でいう所のスマートフォンの画面を想像してもらえば分かりやすいと思います。

このギミックの為、縦にしても横にしても操作できるように操作ボタンなども設計されており、またこのギミックを利用したゲームソフトも数多く発売されました。

子供目線を一番に考えた面白いギミックであり、今見ても斬新なアイデアであると感心せざるをえませんね。

ワンダースワン(ワンダースワンカラー)より発売された代表ソフト

1997年にゲームボーイより発売された、”メダロット”と呼ばれるロボットを使って戦わせるRPGである”メダロット”のリメイク作品である”メダロットパーフェクトエディション カブト/クワガタ

スクウェアより発売された、シミュレーションロールプレイングゲームのワンダースワンカラー用リメイク作である”Front Mission

スクウェアよりゲームボーイから発売されたロールプレイングゲームのワンダースワン用リメイク作である”魔界塔士 Sa・Ga

【中古】ワンダースワンソフト 魔界塔士Sa・Ga

などの名作が発売されました。

ワンダースワンはハード、ソフト共にレトロゲームファンから愛されており、今でも高値で取引されるゲームとなっています。

代表ゲームソフト

メダロットパーフェクトエディション カブト/クワガタ

フロントミッション

魔界塔士Sa・Ga   など

まとめ

いかがだったでしょうか?

据え置き家庭用ゲーム機において、まさかの新参者であるSONYに惨敗した王者任天堂。

そして、長らく任天堂とゲームハード競争でしのぎを削ったSEGAの、ゲームハード開発からの撤退。

ゲームハード会社の栄枯盛衰とも言えますね。

据え置きゲーム機においてSONYに首位を奪われた任天堂ですが、携帯ゲーム機市場は任天堂の”ゲームボーイ”シリーズの独壇場でした。

今後、この携帯ゲーム市場にもSONYがPlayStation Portableで挑戦しようとし、それを任天堂が携帯ゲームの新しい形を提示した新機種であるニンテンドーDSで迎え撃ちます。

そして、ゲームハード開発事業から撤退したSEGAの代わりに、パソコンのOS(オペレーティング・システム)であるWindowsで有名なアメリカの超大企業マイクロソフトがゲームハード開発に参入します。

こうして日本国内のゲーム産業は、新たなゲームハード三国時代に突入する事となります。

ここから先は次回の記事でご紹介します。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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