家庭用ゲームの歴史part1【家庭用ゲームの誕生とアタリショック、そして任天堂の登場】

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現在までに発売された家庭用ゲームの内、世界初の家庭用ゲームであるマグナボックス社のオデッセイから、1980年代に発売されたファミリーコンピューターやセガ・マークⅢまでのゲームハードについての詳細がわかります。

みなさんこんにちは、syuyaです。

突然ですが、皆さんが最初にプレイした家庭用ゲーム機は何だったでしょうか?

ファミコン、スーパーファミコン、ニンテンドー64、ゲームキューブ。

或いはプレイステーション、セガサターンという人もいらっしゃるでしょう。

下手をすると年代がバレそうなこの質問ですが、ではそんな家庭用ゲーム機は一体いつからあるのかというと、その答えは1970年代です。

1972年、アメリカの一人のエンジニアによって発明された”マグナボックス・オデッセイ”が世界最初の家庭用ゲーム機とされています。

この記事執筆時点(2023年)から50年も昔に開発されたんですね。

そこから日々技術は進歩し、最初期のゲームに比べて最近のゲームは実写映像と比べても遜色のないグラフィックに美しいサウンドを搭載するまでになりました。

この記事では、そんな家庭用ゲーム機の歴史をご紹介していきます。

*全ての家庭用ゲーム機を紹介すると膨大な数になる為、代表的なハードに限りますので、ご了承ください。

1972年:世界初の家庭用ゲーム機であるマグナボックス・オデッセイ発売

”マグナボックス・オデッセイ” 世界初の家庭用ゲーム機

世界初の家庭用ゲーム機は、1972年に発売されたマグナボックス・オデッセイです。

1972年、軍事用電子機器メーカーであるサンダース・アソシエイツの元職員であったラルフ・ベアのチームによって開発されました。

販売価格は100ドル(日本円でおよそ36,000円)。

北米と欧州でのみ発売され、日本では発売されていませんでした。

1972年9月から販売され、3年後の1975年に製造が終了するまで、世界中でおよそ35万台を売り上げます。

1970年代初頭、世の中にはまだテレビゲームという概念がありませんでした。

ピンボールなどのアーケードゲームこそあったものの、現在の我々の良く知る、一家に一台の家庭用ゲームというものは存在しなかったのです。

アメリカ人のエンジニアであったラルフ・ベアは、それまで番組を見るだけのデバイスであったテレビに着目します。

そして、

”テレビの画面をプレイヤーが好きに動かせるようにする”

という画期的なアイディアを思いつきます。

ですが、当時の技術力ではテレビに背景やキャラクターなどを表示させ、それら動かすといった事が不可能でした。

その為、オーバーレイと呼ばれる背景の書かれた紙をテレビの上に貼り付け、テレビに表示される白い正方形をキャラクターとして見立てて操作し、プレイしていたようです。

現在のゲームの性能と比べれば天と地ほどの違いですが、低スペックという縛りの中、面白いゲームを作る為のあらゆる創意工夫がなされています。

この当時はまだゲームソフトの交換により遊ぶゲームを変更するという概念は無く、本体に内蔵された数種類のゲームの中から選んでプレイするというものが主流でした。

そのゲームの種類は、野球やテニスなど、現実世界にあるスポーツなどの遊びをゲームの世界で再現したものが多かったようです。

このように、半ばテレビゲームというよりボードゲームに近いゲームが搭載されており、当時の人々の関心を引きました。

そんなゲームの中でも、卓球を模したゲームである”Table Tennis”という内蔵ゲームは、そのシンプルながらも楽しいゲーム性により、内蔵ゲームの中でも一番人気となりました。

ゲーム性としては現実世界のテーブルホッケーが近いですね。

このマグナボックス・オデッセイのTable Tennisに影響され、アタリ社によるPONGや日本のゲーム開発会社であるエポック社によるテーブルテニスなど、様々な模倣品が作られる事となりました。

また、別売りの光線銃というデバイスを使ってガンアクションゲームも出来たのですが、その光線銃の大半はテレビゲーム開発に参入する前の任天堂が作っていたと言います。

任天堂より発売されていた”光線銃シリーズ”

https://aucview.aucfan.com/yahoo/l1101649134/

このように、端的ながらも黎明期のゲーム開発に参加した経験が、後に任天堂がテレビゲーム制作に本格的に乗り出すきっかけとなった事は間違いありません。

マグナボックス・オデッセイは、現代人である我々から見ればとてもテレビゲームとは呼べない代物だったかもしれません。

ですが、当時の常識を打ち破り、限られた技術で果敢に新たな娯楽を開拓しようとしたマグナボックス・オデッセイは、間違いなく”テレビゲームの祖”であると言えるでしょう。

代表ゲームソフト本体内蔵ゲーム

・Table Tennis

・Submarine

・Analogic      等

1975年:アタリよりHOME-PONG発売

Evan-Amos – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18298737による

続いて紹介するのは、後のApple創業者のスティーブ・ジョブズもかつて社員であったアタリ社によって開発されたHOME-PONGです。

アタリ社の創業者であるノーラン・ブッシュネルが、初めてマグナボックス・オデッセイの内蔵ゲームの一つである”Table Tennis”をプレイした際にひどく感銘を受けた事から、家庭用ゲーム機に可能性を見出します。

そして、自らも同様の家庭用ゲームを作る為に1972年にアタリ社を設立しました。

その後、商業用ゲーム機HOME-PONGの制作へと取り掛かります。

結果、マグナボックス・オデッセイの”Table Tennis”をより洗練した卓球ゲームが完成しました。

シンプルでありながら洗練されたゲーム性であったHOME-PONGは人々の間で話題となり、約一万台の売り上げを達成します。

この事から、HOME-PONGは世界で初めて商業的に成功した家庭用ゲーム機であると言われています。

後に発売される日本のエポック社によるテレビテニスや、任天堂によるカラーテレビゲーム15の一部のゲームなどは、このHOME-PONGのゲームシステムの模倣的なものでした。

HOME-PONGで商業的成功を収めたアタリ社は、後に伝説的なゲームハードとなるアタリ2600を発売し、ゲーム業界の最初の覇者となります。

代表ゲームソフト本体内蔵ゲーム

HOME-PONG(マグナボックスオデッセイのTable Tennisに影響を受けた卓球ゲーム)

1975年:エポックより日本初のテレビゲームであるテレビテニス発売

テレビテニス エポック

Demolitionist1, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

1975年に日本の玩具メーカーであるエポック社によって、家庭用ゲーム機であるテレビテニスが発売されました。

販売価格は19,500円

マグナボックス・オデッセイを作ったマグナボックス社と技術提携により開発されました。

”エポック社のテレビテニス”は日本初の家庭用ゲームとして知られています。

この時代としては先進的な、本体のアンテナから電波を飛ばし、テレビ側でその電波を受信し映像を映すという完全ワイヤレスなゲーム機でした。

ゲーム内容は、マグナボックス・オデッセイ及びHOME-PONGと同じような卓球ゲームです。

売上げは中々に好調であったようで、初年度で5,000台。

その後も売れ続け、合計で10,000台を売り上げました。

日本初の家庭用ゲーム機という事で、ゲームの歴史を考える上でもとても重要なゲームハードであると言えます。

代表ゲームソフト本体内蔵ゲーム

アタリ社のPONGと同じような卓球のようなゲームで、パドルを操作し画面上のボールを相手のゴールに入れるというゲームです。

1977年:任天堂より任天堂初のテレビゲーム”カラーテレビゲーム15”発売

カラーテレビゲーム15” 任天堂初のゲーム機

Greg Dunlap (HeyRocker)derivative work: MagentaGreen – https://www.flickr.com/photos/74785688@N00/2736711205/, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38423111による
【中古】その他ハード カラーテレビゲーム 15[MODEL:CTG-15S]

1977年、現在でも世界を代表するゲームメーカーである任天堂の、記念すべき初めての家庭用ゲーム機であるカラーテレビゲーム15が販売されました。

販売価格は本体のみが13,500円、ACアダプタセットで15,000円。

廉価版であるカラーテレビゲーム6が9,800円です。

任天堂は1889年に創業した老舗の娯楽商品開発企業で、伝統的な花札を製造していたほかにも、日本で初めてトランプを開発するなど、当時から先進的な企業でありました。

そして、任天堂の3代目の経営者であった山内博社長が北米で盛り上がりを見せていたテレビゲームに目を付けたのが、任天堂がテレビゲーム業界に進出する事になるきっかけでした。

任天堂はマグナボックス・オデッセイの付属商品である光線銃の開発を受託するなどしつつ、虎視眈々とテレビゲーム産業に進出する機会を伺います。

そんな中、三菱電機からテレビゲーム開発の企画が持ち込まれて、開発に乗り出します。

今でこそ老舗のゲーム会社として知られている任天堂ですが、この当時は家庭用ゲーム産業において後発の部類に入っており、前述のテレビテニスを発売したエポックなどの先駆者にいかに対抗するかという課題がありました。

そこで、任天堂が打ち出したマーケティング戦略が、安価な廉価版であるカラーテレビゲーム6との同時発売というものでした。

カラーテレビゲーム6は、カラーテレビゲーム15の内部構造に少し手を加え、一部のゲームを遊べなくしたものです。

カラーテレビゲーム6は当時の20,000円前後のゲーム本体価格の中で、破格とも言える10,000円切りであった9,800円でした。

この、カラーテレビゲーム6に興味を持った消費者を、より多くのゲームが遊べるカラーテレビゲーム15の購入に誘導するという戦略は見事に効を奏します。

結果として、カラーテレビゲーム15が90万台、カラーテレビゲーム6が60万台を売り上げる大ヒット商品となり、後のゲーム業界における任天堂神話の序幕となったのでした。

この頃はまだソフトウェアが内蔵されたゲームカセットという概念は無く、スイッチの切り替えにより、ゲーム機本体に内蔵された数種類のゲームを選択して遊べるというものであったようです。

このように、従来型の卓球ゲームに多少のバリエーションを加える事によりプレイヤーを飽きさせないようにするという工夫がされており、後にゲーム業界の覇者となる任天堂のアイディア力が発揮されているゲームと言えるでしょう。

代表ゲームソフト本体内蔵ゲーム

こちらもアタリ社のPONGと同種の、二人のプレイヤーがボールを打ち合う卓球ゲームですが、”テニスA””テニスB””ホッケーA””ホッケーB””バレーA””バレーB””ピンポン””射撃ゲーム”の内からゲームモードを選べたようです。

1977年:バンダイよりTV JACK1000が発売される

TV JACK 1000 バンダイ

Artistosteles, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons

1977年には、日本の玩具メーカーであるバンダイよりTV JACK 1000が発売されました。

販売価格は9,800円。

キャッチコピーは

テレビを乗っ取れ!

でした。

任天堂のカラーテレビゲームに対抗し、TV JACK 1000も10,000円を切る9,800円という破格の値段で販売され、人気を博します。

こちらもゲームソフトの交換でゲームを切り替えるという概念はなく、本体に内蔵された4種類のゲームから、一つを選んで遊べるというものだったようです。

代表ゲームソフト本体内蔵ゲーム

・テニス

・ホッケー

・ハンドボール

・スカッシュ

など、4種類のボールゲームから選べる

このTV JACK1000までが第一世代ゲーム機であり、次からご紹介するアタリ2600からは第二世代ゲーム機に分類されます。

1977年:アタリよりアタリ2600が発売される

スーパーインパルス タイニーアーケード アタリ 2600

続いてご紹介するのは、アタリ社によって1977年に発売されたアタリ2600です。

販売価格は199ドル(日本円で約39,800円)。

まだ黎明期であり、一部の人間にしか愛好されていなかった家庭用ゲームという存在を、広く一般に知らしめて根付かせた偉大なゲームハードです。

ゲーム機にはそのスペックにより世代というもので分類されており、前期のTV JACK 1000までが第一世代、そしてこのアタリ2600は第二世代となっています。

第二世代型ゲームハードの特徴としては、それまでのゲームハードの内蔵型のゲームとは違い、ゲームが保存されたロムカートリッジの交換により、一台のゲームハードのみで遊ぶゲームを変える事が出来るようになったという点です。

この画期的な仕組みにより、ゲームハード本体を買いさえすれば、比較的安価なゲームソフトを購入するだけで、多種多様なゲームを遊べるようになりました。

アタリ2600より発売された代表ソフト

アタリ2600からは、数々のジャンルの草分け的なゲームが発売され、それぞれ人気を博します。

中でも後に任天堂から発売される大人気アドベンチャーゲームである”ゼルダの伝説シリーズ”の元ネタになったとも噂される”Adventure

アタリ社が開発したアーケードゲームのコンシューマー版で、いわゆる”ブロック崩しゲーム”である”ブレイクアウト

日本のゲーム開発会社タイトーが開発したアーケードゲームのコンシューマー版で、既に世界中で人気となっていたゲームの移植作である”スペースインベーダーゲーム

など、様々な名作ゲームがアタリ2600から発売される事となりました。

そして権利関係の裁判を経た後、アタリ社以外ゲームソフト開発会社、いわゆるサードパーティーと呼ばれる企業が、アタリ社にロイヤリティを払えばアタリ2600用のソフトを開発する事も認められるようになりました。

しかし、サードパーティによるソフトウェア開発は、多様なゲームを生み出し市場を盛り上げた一方、アタリ2600のソフトを開発する際の参入障壁の低さは、まるでゲーム開発経験のないサードパーティーによる、低クオリティな粗悪品ソフトの大量流入を招きます。

ほとんど素人と言えるサードパーティーのゲームメーカー群は、誇大な広告をもって自社の粗悪なソフトを宣伝しだしました。

その結果、広告に騙されて低品質なゲームを買ってしまう消費者が大量に現れてしまいます。

当時はインターネットによる口コミも無いため

買ってみないと面白いソフトかどうか分からない

という疑心が消費者の間に生まれ、買い控えが起きるようになります。

その結果、ゲーム市場には大量の低クオリティなアタリ2600用ソフトウェアが溢れかえる状態となりました。

これらの出来事は、ユーザーや販売店の間に、家庭用ゲームそのものに対する不信感を抱かせることとなります。

そういった背景の上で止めを刺したのが、二つの伝説的な”駄作”ゲームでした。

それが、日本のゲーム開発会社ナムコが開発した”パックマン”のアタリ2600への移植版である”PAC-MAN(アタリ2600)”と、

1982年に世界的に大ヒットしたスティーブン・スピルバーグ監督によるハリウッド映画”E.T.”を、版権元であるユニバーサル・ピクチャーズから多額のライセンス料を支払い製造されたゲームである”E.T. The Extra-Terrestrial”でした。

これらのゲームソフトは俗にいうクソゲーと呼ばれるもので、とても低クオリティなゲームでした。

アタリ社はこれらが大ヒットすると根拠のない自信を持って、期待される販売数を大幅に超える量のソフトを製造したり、高額すぎるライセンス料を支払うなど、後先考えない先行投資をしてしまいます。

パックマンとE.T.のそれぞれネームバリューのおかげもあって、発売当初はそれなりに売れたのですが、その低品質さゆえに購入した人々の評価は最悪でした。

当然の事ながら、低品質のゲームソフトを買わされた消費者の、アタリ2600やアタリ社に対する信頼、ひいてはゲーム産業そのものに対する信頼が失墜します。

その結果、消費者もお店もメーカーからゲームを購入しようとはしなくなり、北米におけるゲーム産業は壊滅的な打撃を受ける事となりました。

これが、1983年に北米で起きた、北米のゲーム産業衰退のきっかけとなったアタリショックの全容です。

1979年から1989年にかけての北米ゲーム販売市場の推移

1982年をピークにアタリ社製ゲームの販売台数は減少し、1983年の”アタリショック”を機に激減した事が分かる

https://loderun.blog.ss-blog.jp/2021-04-18

北米ゲーム業界を牽引していたアタリ社が引き起こしたアタリショックを機に、北米においてはゲーム産業は衰退してしまいます。

一方日本においては、前述の通りアタリ2600が市場にあまり出回らなかった事からアタリショックの影響は少なく、日本の家庭用ゲーム市場は守られました。

その結果、任天堂やセガ、そして後にソニーといった日本の企業が次々と家庭用ゲームを販売していきます。

さらに、任天堂やセガ、ソニーのなどの日本のゲーム開発企業は、国内のみならず海外に向けても販売を開始します。

そして、高品質な日本産のゲームは瞬く間に世界を席巻する事となったのでした。

結果、ゲーム産業においては任天堂を筆頭とした日本企業の一強時代となります。

代表ゲームソフト

・アドベンチャー

・ブレイクアウト

・パックマン

・スペースインベーダー 等他多数

1980年:任天堂よりゲーム&ウォッチが発売される

ゲーム&ウォッチ 第一作目”ボール” 任天堂

ThePViana, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons
ゲーム&ウオッチ ボール 復刻版

1980年には、任天堂より携帯ゲーム機であるゲーム&ウォッチが発売されます。

このゲーム&ウォッチは任天堂初の携帯用ゲーム機です。

販売価格は5,800円。

時計が内蔵されており、ゲームをプレイしていない間は時計としても使える事から、ゲーム&ウォッチという名前の由来ともなりました。

当時はカートリッジ交換機能を実装しておらず、本体一個につき一つのゲームが内蔵しているというものでした。

様々なゲームが発売されましたが、大半が黒い人型のキャラクターを操作してお手玉をしたり、迫りくる物体を避けたりするなどのアクションを楽しむゲームとなっています。

この黒い人型のキャラクターは当初名前もなく、ただのプレイヤーの分身として扱われていましたが、後に2001年11月に、同社のゲームハードであるニンテンドーゲームキューブにて発売された大乱闘スマッシュブラザーズDXにて、隠しキャラの一人として”Mr.ゲーム&ウォッチ”という名前で再登場しました。

この”大乱闘スマッシュブラザーズDX”での登場によって、初めてゲーム&ウォッチの存在を知ったという人も少なくありません。

ゲーム&ウォッチは世界中で飛ぶように売れ、当時借金を抱えていた任天堂は借金を全額返済し、一気に大黒字となります。

そして、このゲーム&ウォッチの販売によって得た利益によって、世界一有名なゲーム機と言っても過言ではないファミリーコンピューター(通称ファミコン)の開発が進められることとなりました。

ゲーム&ウォッチより発売されたソフト(本体)

前述の通り、ゲーム&ウォッチは本体ひとつに対しひとつのソフトが遊べるゲームであり、違うソフトを遊ぶためには新たに本体ごと買わなければいけませんでした。

その為高価なものとなっており、この点は次世代機である”ゲームボーイシリーズ”で改善される事となります。

ゲーム&ウォッチで発売されたソフト(本体)としては、最初のソフトでありお手玉ゲームが遊べる”ボール

火災現場から落下してくる人たちを、担架を持った救命士を操作して助ける”ファイア

巨大なタコの触手をかいくぐりつつ、海底にある宝を回収するゲームである”オクトパス

など、様々なソフトが発売され話題となります。

任天堂にとっての初の携帯ゲーム機であったことなどから、このゲーム&ウォッチはレトロゲームファンにとって大変価値のあるゲームハードとなっています。

代表ゲーム

ボール

ファイア

オクトパス     等他多数

1983年:任天堂よりファミリーコンピューターが発売される

ファミリーコンピューター 任天堂

1983年、任天堂より伝説的なゲームハードであるファミリーコンピュータ(通称ファミコンが発売されます。

販売価格は14,800円。

このファミリーコンピュータや後述のセガ・マークⅢからはゲームハードの世代が交代し、第三世代ゲームハードと呼ばれています。

任天堂より発売されたこのゲームハードは世界中で大ヒットし、販売台数は驚異の6,191万台を記録しました。

日本のみならず、アタリショックによってゲーム市場が廃れていたアメリカや、ヨーロッパ、アジア諸国など、とにかく世界中で売れに売れまくったゲームハードです。

このゲームの発売により、任天堂は押しも押されもしないゲーム開発会社の王として君臨し、その名前は世界中に轟くこととなります。

ファミリーコンピューターより発売された代表ソフト

最初のファミリーコンピュータ用のゲームソフトは”ドンキーコング”です。

巨大なゴリラであるドンキーコングに攫われた女性であるレディを救出するべく、キャラクターを操作してドンキーコングの投げてくる障害物を避けつつ、ステージ上部のゴールへと辿り着くという、アクションゲームとなっています。

この”ドンキーコング”の操作キャラクターが、後に世界的なキャラクターとなるマリオの原型となりました。

しかし、この時点では”マリオ”という名称はつけられておらず、”ミスタービデオゲーム”や”ミスターニンテンドー”などと呼ばれていました。

”マリオ”という名称が付けられたのは、続編の”ドンキーコングjr”からとなります。

そんなマリオの名付け親は、マリオシリーズやゼルダの伝説シリーズを始め、後の数多くの任天堂のゲームシリーズに携わることになる伝説的なゲームプロデューサーの宮本茂さんでした。

そしてそんなマリオを主人公にし、彼を一躍世界的スターにしたゲームこそ、1985年に発売された”スーパーマリオブラザーズ”です。

主人公であるマリオを操作し、横スクロールのステージを敵を避けつつ進み、ラスボスであるクッパを倒し、囚われているピーチ姫を救い出すというシンプルな操作性とストーリー性は、多くのゲームユーザーに支持されました。

このゲームで登場した亀の大魔王クッパやキノコ王国の姫であるピーチ姫、そして舞台であるキノコ王国などといった設定は、後のマリオシリーズに継承されていく事となります。

このソフトは驚異的な売り上げを記録し、売上本数 国内681万本 世界4024万本という驚異のメガヒットを記録しました。

マリオシリーズ以外にも、同じく任天堂より発売されたゼルダの伝説など、後の任天堂の代表シリーズの一作目の多くも、このファミコンより発売されました。

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また、北米におけるアタリ2600の、サードパーティーによる粗悪なゲームソフトの市場の氾濫をよく観察していた任天堂は、一定の水準を満たしたサードパーティーのソフトにのみ自社ハードのソフトの開発許可を与えるという許可制を導入します。

その結果、サードパーティーによる良質かつ独創的なゲームソフトが発売され、ハードであるファミコン自体の売り上げの増加にもつながりました。

代表的なサードパーティーによるファミコン用ソフトとしては、

エニックス(現在のスクウェア・エニックス)より発売された、ドラゴンボールで知られる漫画家鳥山明氏によるキャラクターデザインにより話題を呼び、後に日本を代表するRPG(ロール・プレイング・ゲーム)となる

ドラゴンクエスト(通称ドラクエ)。

スクウェア(現在のスクウェア・エニックス)より発売された、優れたストーリー性が話題を呼び、後にドラゴンクエストと並ぶ日本を代表するRPGとなった

ファイナルファンタジー(通称FF)。

カプコンより発売されたアクションシューティングゲームであり、後にシリーズかされ国内外問わず人気となったシリーズの一作目である

ロックマン

ハドソンより発売されたアクションゲームで、十字に爆風が広がるボムを使用して敵を倒す斬新なアイディアが話題を呼んだ

ボンバーマン

など、後に代表的な日本のゲームとなる作品の第一作目が、ファミリーコンピューターより発売されました。

ファミコンの登場により、完全にゲーム市場はアメリカの企業から日本の企業に主導権が移り、以後20年以上にもわたり日本のゲームが市場を席巻します。

代表ゲームソフト

ドンキーコング

スーパーマリオブラザーズ

ゼルダの伝説

ドラゴンクエスト

ファイナルファンタジー

ロックマン

ボンバーマン      等他多数

1983年:セガよりセガ初のテレビゲームであるSG-1000が発売される

Evan-Amos – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=18273361による

1983年、後に任天堂やSONYと家庭用ゲーム開発競争を繰り広げる事となる日本のゲーム開発会社セガが、自社初のゲームハードであるSG-1000を発売しました。

販売価格は15000円でした。

ゲームハードの世代としては、任天堂と同じ第三世代ゲームハードとなっています。

発売日は任天堂のファミリーコンピューターと同じ7月15日であり、このハードから1998年の第六世代ゲーム機までおよそ15年もの長きに渡る、SEGAと任天堂によるゲームハードの覇権競争が始まる事となります。

スペックとしては当時のゲームハードとして標準的なスペックでしたが、奇しくも同じ日に伝説的なゲームハードであるファミリーコンピューターが発売されたため、売り上げは伸び悩んでしまいました。

結果、日本で40万台、世界で100万台を売り上げる事となりました。

しかし、SG-1000の開発により蓄えられた家庭用ゲーム開発のノウハウや、SG-1000の売り上げによって得た資金は、後のセガのゲーム開発に大きな影響を与えます。

SG-1000より発売された代表ソフト

SG-1000より発売された最初期のゲームで、”女の子を操作してクマを避けながら男の子の元へ花を届ける”という独特な世界観が特徴のアクションゲームである”ガールズガーデン

ファンシーなグラフィックが特徴の横スクロールアクションげーむである”ワンダーボーイ

などの名作ソフトが発売されました。

後に一大ゲームブランドとなるセガの最初の家庭用ゲーム機であることなどから、ゲームマニアの間でもコレクション価値の高いゲームハードとなっています。

代表ゲームソフト

ガールズガーデン

ワンダーボーイ

ボーダーライン 等他多数

1985年:セガよりセガ・マークⅢが発売される

【中古】セガ マーク3ハード セガ・マスターシステム本体

任天堂のファミリーコンピュータに対抗して、セガによって1985年にセガ・マークⅢが発売されます。

販売価格は15,000円。

ファミコンと同じく第三世代ゲームハードに属しています。

ファミコンと比べても遜色のないスペックではありましたが、国内ではファミコンの売り上げには及びませんでした。

唯一ヨーロッパにて健闘するも、第一次ゲームハード戦争と呼ばれたゲームハードの優位を競う戦いは、完全に任天堂の勝利に終わります。

セガ・マークⅢの敗因としては、スペックとしては前述の通りファミコンと遜色のないものではありましたが、任天堂が家庭でみんなで遊べるゲーム作りにこだわった事により、ゲームのメインの購買層である子供の人気をファミコンに奪われた事が挙げられます。

しかし、任天堂とのゲームハード戦争にこそ敗北したものの、セガ・マークⅢ自体は高品質なゲームハードであり、多くのファンを獲得したのも事実です。

セガ・マークⅢより発売されたゲームソフト

セガ・マークⅢからは高クオリティのゲームソフトが数多く発売され、レトロゲームマニアの中にはいまだ根強いファンも多い名作ゲームハードとなっています。

任意方向へのスクロールと柔らかいグラフィックが人気を呼んだ名作シューティングゲームである”ファンタジーゾーン

アーケード版よりの移植作である疑似3Dシューティングゲームである”スペースハリアー

当時週刊少年ジャンプで連載されていた、名作少年漫画である”北斗の拳”のゲーム化ソフトである”北斗の拳

など、数々の名作ソフトが発売され、これらはゲームファンに名作ゲームとして大いに支持される事となります。

代表ゲームソフト

スペースハリアー

ファンタジーゾーン

北斗の拳     等他多数

まとめ

いかがだったでしょうか?

この記事では、家庭用ゲーム機の黎明期に開発されたマグナボックス・オデッセイを始めとした第一世代ゲーム機から、家庭用ゲーム産業を一般のものとしたアタリ2600を始めとした第二世代ゲーム機、そして一世を風靡した任天堂のファミリーコンピューターを始めとした第三世代ゲームハード機までをご紹介しました。

この後、ファミコンの販売によって一躍ゲーム産業の王者となった任天堂に対し、セガやハドソンといった他のゲーム業界が自社ハードをリリースし、その背中を追いかけます。

そして、家庭用ゲーム機市場は群雄割拠の時代に突入します。

そんな話となっているこの続きは、part2でご紹介します。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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