【歴史】人類史上最強の天才12選【アリストテレスからアインシュタインまで】

勉強
この記事でわかる事

主に自然科学分野における、古今東西の人類史に残る天才達についてわかります。

こんにちは、syuyaです。

突然ですが、皆さんの周りには”天才”の方はいらっしゃいますか?

世の中には秀才は多くいますが、世の中を変えてしまう程の天才となると、なかなか見つけられないものです。

勿論、天才と一言で言ってもそれは多岐に渡ります。

文学の天才、スポーツの天才など、各々の分野で天才と呼ばれる人物は、古今東西を問わずいます。

この記事ではそんな天才の内、主に学問の中の数学物理学といった自然科学分野における、歴史を変えたほどの天才達をご紹介します。

アリストテレス・・・自然科学の礎を築いた”万学の祖”

アリストテレス

アリストテレスは紀元前384年から紀元前322年にかけて、ギリシアで活躍した哲学者であり科学者です。

哲学者としては、イデア論で有名な哲学者プラトンの弟子であり、無知の知で知られる”西洋哲学の祖ソクラテスの孫弟子として知られています。

哲学者としても師を凌駕するほどの業績を残していますが、しかし彼の功績は哲学面に留まらず、自然科学の分野でも多くの功績を残しています。

中でも、それまでのギリシアの学問は”博物学”とも呼べるもので、ありとあらゆる知識が一緒くたにされていたものを、それぞれ”哲学””自然科学”などと分類し、体系立てて学問として整備した事から、”万学の祖”として知られるようになりました。

後にその評判を聞いたギリシア北方の王国マケドニアのフィリッポス二世に招かれ、若き日のアレクサンドロス大王の家庭教師を務めた事でも知られています。

アレクサンドロス(左)の家庭教師をするアリストテレス(右)

その当時の全ての学問に通じていたアリストテレスですが、そんな彼の自然科学分野での特筆すべき功績は、生物学自然哲学、そして科学的方法論の分野での功績です。

生物学については、生物の特徴からそれぞれの種族を分類し、系統立てて種類分けした初めての人物であり、後の生物学の発展に大きく寄与する事となります。

また、天文学地理学についても卓越した研究を残しています。

アリストテレスの一番大きな功績と言えるのが、観察に基づいた研究手法を確立した事にあります。

それまでのギリシアの自然科学の根底であった哲学的な論考を排し、実験や観測をいった実際的な手法を用いて確証された事実を重視した事から、同じく実験と観測を重視する後の近代科学の礎を築いた人物こそアリストテレスなのです

それこそ、アリストテレスが”万学の祖”と呼ばれる所以であるといえるでしょう。

アリストテレスの研究は、後の中世アラビア諸国にて盛んに研究されます。

その結果、中世のアラビアは当時の世界で最も進んだ科学知識を持つ地域となります。

その後、キリスト教の聖地であるエルサレムの奪還の為に組織された、西欧のキリスト教国による連合軍である十字軍が中東イスラム諸国に攻め込むと、戦利品としてアラビア語に翻訳されたアリストテレスの研究資料が西欧諸国に持ち帰られます。

そして、半ば逆輸入する形となったそれらのアリストテレスの研究資料は、西欧諸国に再評価されることとなります。

その後の中近世のイタリア半島で盛んであったルネサンス運動を通じ、アリストテレスの研究は後に続く近代科学の発展のための重要な資料となりました。

そして、西洋ではアリストテレスの確立した実践的な研究を通して科学技術を発展させ、数々の自然法則を見つけ出すのでした。

この事からも、アリストテレスは”近代科学の祖”と言っても間違いのない人物であるといえるでしょう。

そんなアリストテレスが、”学び”について残した言葉が残っています。

何かを学ぶとき、実際にそれを行なうことによって我々は学ぶ。

それまでの哲学的な学問を止め、実験や観測を主とした実践的な学問を切り拓いたアリストテレスらしい言葉だと思いませんか?

アルキメデス・・・その頭脳で大帝国ローマを恐れさせた大天才

アルキメデス

ドミニコ・フェッティによる『Archimedes Thoughtful』

アルキメデスは紀元前287~紀元前212年ころに、自身が生まれた地であるシチリア島シラクサで活躍した科学者です。

彼の研究分野は現代でいう所の数学物理学工学と多岐に渡りました。

中でも傑出した業績としては、物理学における水などの流体に働く浮力の原理であるアルキメデスの原理の発見と、それを応用した物体の体積の測り方の発見が挙げられます。

アルキメデスの原理

液体中に浸かる物体に働く浮力は、その物体が液体中に押し出す液体の体積に等しい。

アルキメデスの原理の実験動画

この人類史に残る大発見ですが、その発見のきっかけは些細な事でした。

ある日風呂に入ったアルキメデスは、風呂おけに溜まった水が、自身の身体によって押し上げられ、風呂おけから溢れたのを見ます。

その時にアルキメデスの原理を発見したのです。

またその際、彼はギリシア語で”分かったぞ!”という意味の

 ΕΥΡΗΚΑ!(ヘウレーカ)

と叫び、裸のまま外に飛び出していったというエピソードが残っています。

天才というものは日常の些細な出来事からもヒントを得て、本質的な法則を見つけ出すものなのですね。

その他数学分野でも、円周率”π”の近似値の求め方を発明した事でも知られています。

円に内接する正六角形と縁に外接する正六角形の二つを利用する事により、円周率の近似値を求めるというもので、この正六角形の角を増やしていく事により、より精度の高い近似値が求まるというものでした。

彼のこの方法はとても正確で、後に17世紀に無限級数が発明されるまで、この方法より正確に円周率を求める方法はありませんでした。

また、彼の科学知識は兵器の発明にも遺憾なく発揮されています。

彼のいたシラクサは紀元前3世紀当時、勢力を拡大していた強大な帝国であるローマ帝国に度々脅かされていました。

そして、ローマ帝国と、その最大のライバルであった、現在のチュニジアに存在していた大国カルタゴとの間に第二次ポエニ戦争が勃発、シラクサはカルタゴ側についたため、ローマ帝国はシラクサを屈服させるため大軍をシラクサに送ります。

数で圧倒的な優位に立っていたローマ兵ですが、アルキメデスによって開発されていた防衛兵器によって苦戦を強いられます。

兵器の例を挙げると、てこの原理を応用し、重たい岩を遠方に投げ敵を攻撃する投石器カタパルト)。

投石器のレプリカ

CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=219437

かぎ爪のついたクレーンを海中に垂らし、ローマ海軍の軍艦の船底にかぎ爪をひっかけ、船を転覆させるというアルキメデスのかぎ爪という兵器。

アルキメデスのかぎ爪の想像図

そして半ば伝説と言われる、大量の光を反射する板を並べ、太陽光を一点に反射させる事により、その一点に太陽光の熱を集中させる事により木で出来ていたローマ海軍の軍艦を遠くから燃やしたという、通称アルキメデスの熱光線など、当時としてはオーバーテクノロジーな兵器の数々でした。

これらの兵器を用い善戦したシラクサでしたが、圧倒的な物量差とローマ軍による包囲の後の海上封鎖による兵糧攻めなどにより徐々に敗色が濃くなり、遂には島内に攻め込まれてしまいます。

アルキメデスの頭脳の噂は、敵国であるローマ帝国にも響いており、その頭脳を失う事を惜しんだローマ帝国の将軍マルケッルスは、ローマ軍全体に

アルキメデスは決して殺さず、生かして連れてくるように

と厳命を下します。

そして、シラクサ領内にてアルキメデスと思しき人物を発見したローマ兵は、命令を守る為その人物に近づこうとしました。

しかし、自分の国が今まさに侵略され滅びようとしている最中であっても、自らの研究に没頭していたアルキメデスは、地面に描いていた図形をそのローマ兵に踏まれそうになると、

Noli turbare circulos meos!(私の円を壊すな!

と叫んだと言います。

これに激怒したローマ兵は、将軍の厳命に背き、その場でアルキメデスを惨殺してしまいました。

アルキメデスを失った事を知った将軍マルケッルスは、敵でありながらも人類の宝とも言うべき頭脳を持っていたアルキメデスを失った事を嘆いたと言います。

仮にもしアルキメデスが殺されず、捉えられた後ローマに連行され、ローマ帝国の支援の下で研究を続けていたならば、更に数多くの発見をし、人類の科学の発達は更に早まったりしたのでしょうか?

歴史にIFはありませんが、気になるところではありますね。

劉 徽・・・中国の誇る数学の大天才

劉徽

https://kknews.cc/history/8qybomq.html

続いて紹介するのは劉徽です。

三国時代の中国に存在した国であるの数学者で、古代中国の数学書である九章算術の注釈本を執筆した事で知られています。

九章算術は紀元前1世紀頃に書かれたと推測される古代中国の数学書で、それまで中国に存在した数学の知識をまとめあげ、全部で九章からなる問題集の形式で発行されていた本です。

中国においてこの九章算術の果たした役割は大きく、19世紀末の清代の末期に西洋数学が入ってくるまで、中国における数学の考え方の中核となっていた書物でした。

そんな九章算術の円周率の項目について、円周率はで計算するのが良いと書かれていた所を、劉徽はとりつくし法と呼ばれる手法を用いて、より正確な値である3.14で計算するのが良いと注釈を入れています。

これは当時の世界全体で見ても、最も正確な円周率の近似値です。

その他、劉徽の残した目立つ業績としては

・平方根の近似値よりも正確な解を求めた

・ピタゴラスの定理と全く同じ原理の発見と証明を行うなど、多くの幾何学の新たな発見をした。

・円周率πの値を、3.14159まで求めた

・等差級数(等差数列)と等比級数(等比数列)の総和を求める方法を発見した。

・積分法の最初期のアイデアを提案した

など、後の数学にとって最も重要な発見を数多くしました。

今なお、劉徽は中国のみならず、世界の数学者の中でも、歴史上最も優れた数学者の一人として数えられています。

イブン・ハイサム・・・狂人のふりをしつつも研究を続けた中東の天才

カタールの切手に描かれたイブン・ハイサムの肖像画

イブン・ハイサムは10世紀から11世紀にかけて、アラビア地域で活躍した科学者です。

主な業績は、光の屈折などの光学分野の研究ですが、その他にも数学、天文学、医学、心理学、哲学、などに多大な業績を残しました。

イブン・ハイサムは965年、当時アッバース朝の支配下にあった、現在のイラクのバスラという都市に生まれました。

後に、エジプトを支配していたファーティマ朝のカリフ(指導者)であるハーキムに招致され、エジプトにてナイル川の治水事業の任を受けます。

ファーティマ朝第6代カリフ ハーキム

ナイル川はエジプトの地を肥沃にし、船を使った物流の要としてエジプトに栄える文明に欠かせない存在である一方、毎年氾濫を起こすという問題点も存在していた為、いかにしてナイル川を治水するかは、歴史上でエジプトを支配する王たちの一番の課題でありました。

ハイサムはナイル川を遡って調査し、エジプト南部のナイル川上流域であるアスワンの地にせき簡易のダムのようなもの)を設ければ、ナイル川の氾濫を防ぐことが可能なのではないかという推論を導き出します。

しかし、ハイサムをもってしても、当時の技術力と知識ではナイル川の治水事業は不可能であったため、ハイサムはハーキムに謝罪します。

ハーキムは謝罪を受け入れ、それでもハイサムを処罰することはありませんでした。

このように寛容な面もあり、知恵の館と呼ばれる学術機関を設置するなど、学術を手厚く保護する政策を施したハーキムでしたが、一方で冷酷かつ様々な奇行で知られる専制君主という側面もあったのです。

実際にハーキムはファーティマ朝の宰相を始めとして官僚など、自らの意にそぐわないものは次々と処刑していきます。

そんな主君の様子を見て、いつハーキムが気まぐれを起こし、今度は自分が処刑されてもおかしくないと考えたハイサムは、何と狂人のふりをして危機を逃れようとします。

これは、イスラーム法において、精神に異常をきたしたものは責任を追及されず、死罪に課せられることはないという決まりがある為でした。

その後、ハーキムが崩御するまでの約10年間に渡って、ハイサムは自宅に軟禁させられます。

その間も、ハーキムの目を欺くために、人前では狂人のふりを続けつつも、人のいない場所では余りある時間を研究に費やし、のちに有名となる光学の書など、様々な書物を残します。

そして、ハーキムが亡くなると10年間続けた狂人のふりをすぐに止め、公然と研究を続けたといいます。

学問的な面ばかりではなく、暴君の下でどうすれば生き残ることが出来るかといった、人の中で生き残る為のサバイバル面での知能の高さをうかがい知ることが出来るエピソードですね。

因みに、ハイサムが計画段階で断念した、ナイルの治水作業の為に建設しようとしたアスワンの堰ですが、時代が下り1960年に、当時のエジプト・アラブ共和国の大統領ナセルの下で国家事業として建設が開始され、1970年に完成したアスワン・ハイ・ダムの建設された位置が、まさにハイサムが堰を建設するべきと考えた位置と全く同じだったのです。

当時のダム建設の専門家は、1000年前の天才が考えたナイル川の治水構想が、現代の最新の科学知識で導き出したダムの建設構想の先駆けとも言えるものであったという事実に驚愕したと言います。

まさに生まれるのが早すぎた天才といった所でしょうか。

彼の業績は後にルネサンス期のヨーロッパに持ち込まれ、多くの科学的な発展の礎となり、また多くの科学者に影響を与えました。

レオナルド・ダ・ヴィンチ・・・ルネサンスの理想を体現した”万能の天才”

レオナルド・ダ・ヴィンチ

続いて紹介するのは、レオナルド・ダ・ヴィンチです。

15世紀のルネサンス期のイタリアフィレンツェで活躍した人物であり、芸術家としての活動のほかにも、数学物理学工学医学などを始めとした、ありとあらゆる分野の研究を行いました。

そのため万能の天才と呼ばれ、後の文学作品など、多くのフィクションの題材にもなっています。

レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年のイタリア、フィレンツェの近くのヴィンチ村という所で生まれます。

我々のよく知る”レオナルド・ダ・ヴィンチ”という名前は、いわゆる姓名からなる本名という訳ではなく、イタリア語で”~から、~出身の”を表わす前置詞の”da”を使った通称であり、”ヴィンチ村出身のレオナルド”と言った意味となります。

少年期のダ・ヴィンチは好奇心旺盛で、よく自然界の動植物を観察してはスケッチしていました。

中でも空を飛ぶに対して並々ならぬ興味があり、鳥を観察したり時に解剖したりして、鳥の飛行のメカニズムについて独自の見識を深めていきます。

そして幼少期に研究した鳥の羽の具体的な構造が、後に彼の芸術作品に登場するリアルな天使の羽の描写に役立つこととなります。

レオナルドと師であるヴェロッキオによる共作”受胎告知”

左に描かれているのが、レオナルドにより描かれたリアルな翼を持つ天使”ガブリエル”

レオナルド・ダ・ヴィンチ – 投稿者自身による著作物 Livioandronico2013, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=76613573による

そんな彼の科学面での功績としては、画家としての彼の明細なスケッチによる人体解剖学に対する貢献が挙げられ、人類史上初の正確な人体解剖図を描きました。

また、現代のヘリコプター戦車潜水艇などのプロトタイプとも呼べるアイディアを創造するなど、近代工学の先駆けとも呼べる先進的な研究を行いました。

そういった彼の開発アイディアや研究記録などは、後にレスター手稿などと呼ばれる数々の手稿に書き残され、現在まで残っています。

レスター手稿

また、数学分野においては黄金比の研究で知られ、自身の作品に黄金比を多分に使用していたことでも知られています。

そんなレオナルドですが、若いころは絶世の美男子であったと伝えられています。

更には運動神経もかなり良く、人の背丈ほどの高さを助走も無しに飛び越えるという並外れた運動能力を持っていたとも伝えられています。

天は二物を与えないというのは、彼には当てはまらないようですね。

アイザック・ニュートン・・・”万有引力”を発見し、古典派物理学を作り上げた大天才

アイザック・ニュートン

アイザック・ニュートンは17世紀のイギリスで活躍した科学者で、”近代科学の父”とも呼べる人物です。

彼の功績は数学や物理学の分野で特に顕著で、今日”ニュートン力学”と呼ばれる古典力学や、微積分法の確立に貢献したことで知られています。

後に20世紀の物理学者アルベルト・アインシュタイン相対性理論を発表するまで、ニュートン力学は万物の運動を説明する不変の理論であると考えられていました。

また、全ての物体に作用する、お互いに引き寄せ合う性質である万有引力の発見でも知られています。

この万有引力の発見の有名なエピソードとして、ニュートンが庭で休憩していた時、リンゴの木からリンゴが地面に落ちるのを見て、リンゴが地球の引力に引かれて落ちたのだという発想を得たという”ニュートンのリンゴ”という有名なエピソードがあります。

このリンゴはセイヨウリンゴの一種であるケントの花という品種のリンゴであり、リンゴの中でも特に成熟した果実が落下する特性が強い品種であったといいます。

ニュートンの母校であるケンブリッジ大学の植物園に植えられているケントの花

またイブン・ハイサム以来となる光学の研究にも貢献し、プリズムを使った実験を行い、白色光の特性についての研究を行いました。

その他、光のスペクトル分析を行ったり、現代では通説となっている、空にかかる虹が七色で出来ているという事を指摘したのもニュートンが最初です。

これらの研究は光学という書物にまとめられました。

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また数学分野でも多大な功績を残し、同時代のドイツの数学者であったゴッドフリート・ライプニッツとほぼ同時期に、かつ独立して微積分法を開発しました。

微分積分法は現代の文明になくてはならない数学技法であり、物理学のみならず数学においても人類の発展にとって欠かせない発見をしたと言えます。

ニュートンの確立した理論は、現代ではニュートン力学または古典力学と呼ばれ、彼の著書プリンキピア(正式名称”Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica自然哲学の数学的諸原理)”)にまとめられました。

彼の築いたこの物理体系は、後に20世紀最高の物理学者とも呼ばれるアルバート・アインシュタイン相対性理論を発表するまで不変の真理として扱われます。

レオンハルト・オイラー・・・失明しつつも研究を続けた”数学界の巨人”

レオンハルト・オイラー

続いて紹介するのは18世紀のスイスで活躍した数学者レオンハルト・オイラーです。

後の19世紀に活躍したカール・フリードリヒ・ガウスと共に、後世において数学界の二大巨人と呼ばれる人物です。

オイラーは膨大な量の数学論文を生涯に渡って書き続けた事で知られ、その合計は886編にも及びます。

もともと右目を失明していたオイラーでしたが、あまりに研究に没頭し残った目を酷使し続けた結果、ついにはもう片方の目も失明し、全盲となってしまいました。

しかし、全盲になった後でも自分の子供や同僚の助けを借りながら研究を続け、論文を発表し続けたという驚愕のエピソードが残っています。

その際、オイラーは頭の中で難解な数学論文を組み立て、口述で協力者に筆記してもらうという人間離れした方法をとっています。

彼の数学分野での功績は幅広いものであり、解析学数論幾何学数理的物理学など多岐に渡りました。

さらに、ドイツの数学者ライプニッツによって発明されていた関数を、現代でも使われる”y = f(x)”という形にしたのもオイラーでした。

そんなオイラーの功績の中で最も際立ったものの一つとされているのが、”世界一美しい数式”と称されるオイラーの等式の発見でした。

オイラーの等式は、1748年にオイラーが発表したオイラーの公式から導き出すことが出来ます。

オイラーの公式

eix = cos x + i sin x

この公式は、指数関数三角関数、そして虚数単位 iを結びつける公式です。

特にこの公式において、xの値が円周率πである時、

オイラーの等式

e + 1 = 0

となり、これをオイラーの等式といいます。

これは、数学史上最も美しい式として、数学者の間で人気の式となっています。

数学における三大分野に幾何学代数学解析学があります。

幾何学は、自然に存在する図形の性質などを研究する学問であり、その研究成果として円周率πがあります。

代数学は、方程式の解き方を研究する学問であり、その研究成果として二乗したら-1になる虚数単位iがあります。

そして解析学は、微分・積分や関数の極限について研究する学問であり、その研究成果として”自然対数の底”とよばれるネイピア数eがあります。

オイラーの等式の美しいと言われる由縁は、これら全く違う分野の定数を組み合わせた数に、始まりの自然数である1を足した結果0になるという所にあります。

オイラーと並ぶ数学者であるガウスを始め、この等式は後の時代の数学者の惜しみない賞賛を浴びました。

オイラーは失明した後も死ぬ直前まで研究を続け、1783年に76才でこの世を去りました。

死後200年以上経った現在でも、オイラーを超える数学者はいないとさえ言われるほどの数学の天才でした。

マイケル・ファラデー・・・貧しい身分から独学で大発見をした”努力の天才”

by Thomas Phillips,painting,1841-1842

マイケル・ファラデーは19世紀のイギリスの物理学者・化学者で、電磁気学の分野で多大な功績を残した人物です。

その生まれは恵まれたものではなく、1791年のロンドン郊外の村に、鍛冶屋見習の家に、4人兄弟の3男として生まれました。

家が貧しかった為、当時としては珍しくない事ながら、正規の学校教育をほとんど受けさせてもらえず、14才の時に近所で製本業と書店を営む人物の下に丁稚奉公に出されます。

奉公の傍ら、そこにあった大量の本を読んだことで科学知識を中心に膨大な知識を得たファラデーは、年季奉公の最後の年であった1812年、アルカリ金属アルカリ土類金属を発見し、イギリス国内で有名な科学者となっていたハンフリー・デービーの公聴会を受講するようになります。

自らの公聴会に熱心に参加する若者であるファラデーを、次第にデービーも気にかけていくようになり、自らの雑用係としてファラデーを雇いました。。

そして、実験中の事故で視力を失ったデービーは、自らの実験の補佐をさせるためにファラデーを助手として雇う事に決めます。

当代一の科学者の助手となったファラデーは、寝る間も惜しんで様々な実験を行い、後に有名となる様々な法則を見つけ出します。

主なファラデーの功績としては、

電磁誘導の発見

電気分解の法則

磁場概念の発見

などが挙げられます。

それまで、雷などの自然現象から電気のおおまかな性質や、天然の磁石が鉄などの金属を引き寄せる磁力のおおまかな性質は知られていました。

また、1820年にはフランスのアンドレ=マリ・アンペールにより、銅線を流れる伝記の方向に対し右ねじの方向に磁界が生じるというアンペールの法則が発見され、電磁気学の基礎が作られていました。

そして、師であるデービーが病で亡くなった二年後の1831年、ファラデーは磁場内で銅線を動かすことにより電流が生じるという電磁誘導の法則を発見します。

ファラデーの発見した電磁誘導の実験動画

電磁誘導の発見は、現在の発電技術電動技術、さらにはトランスフォーマーなどによる送電技術の根幹を成す発見であり、電磁誘導の発見が無ければ電車電灯送電ネットワークなどといった文明の利器は開発されなかったと思われます。

ファラデーのこの発見は、後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが数式化し、マクスウェル方程式の一部としました。

さらにファラデーは、電気分解における物質量と電気の通過量の関係性を示す電気分解の法則を発見します。

電気分解を行いファラデー定数(F)を求める実験動画

ファラデーの電気分解の法則には第一法則第二法則があり、それぞれが伝記を流すことによって新たな物質を取り出す(析出)際の、電気量と物質量の関係について説明しています。

ファラデーによって明らかにされた電気分解の法則は、今日の化学工業の分野で広く応用され、現代の文明になくてはならないものとなています。

このように、貧しく身分もなく学校教育も受けられなかったファラデーですが、たゆまぬ努力と生来の知的好奇心により、人類の科学史を語るのに避けては通れないほどの科学者となりました。

1853年、ロシア帝国オスマン帝国イギリスフランス連合国によるクリミア戦争が勃発すると、余生を過ごしていた62才のファラデーの下に、国家の為に化学兵器を作って貰えないかという打診がイギリス政府よりきました。

それに対しファラデーは、

化学兵器を作ることはとても簡単だ。しかし絶対に手を貸さない!

と、政府の要望を突っぱねます。

人類の発展の為に苦労して身につけた知識を、人を殺すために利用される事は断じて許せなかったという訳です。

科学者とはかくあるべしというエピソードだと思いませんか?

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン・・・インドが生んだ桁違いの”数学の魔術師”

続いてご紹介するのは、インド出身の数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンです。

その卓越した数学センスから、”インドの魔術師”という異名をとった天才数学者です。

ラマヌジャンは1887年、南インドのバラモン階級の家庭に生まれます。

ラマヌジャンの家庭は、インドにおける階級制度であるカースト制における、最上級の階級であるバラモンではありましたが、経済的には恵まれておらず極貧の家庭でした。

そんなラマヌジャン少年ですが、高校時代の成績は最悪で、天才どころか劣等生と言ってもいいような悲惨な状態であったといいます。

そんな中、15才のラマヌジャン少年は純粋数学要覧という数学の本に出合った事から、数学の面白さに気づき、数学に没頭していきます。

大学に進学するものの、数学に没頭するあまり数学以外の学業をおろそかにしたため、大学の卒業要件を満たせず中退してしまいます。

その後、仕事の傍ら数学の研究を続けたラマヌジャンは、周囲に勧められる形でイギリスの有名な数学者に、自身の数学の”研究成果”を送って評価してもらおうとしました。

当時のインドはイギリスの植民地であり、その植民地の名も知らぬ若者の”研究成果”に注目する数学者はそうそういませんでした。

ですがそんな中、解析学の権威でありケンブリッジ大学の教授であったゴッドフレイ・ハロルド・ハーディのみがラマヌジャンの研究成果の重要性に気づきます。

ハーディはラマヌジャンをケンブリッジに招き、ラマヌジャンを指導しつつ共に研究を始めました。

ラマヌジャンの功績は数学の多くの分野に渡りましたが、中でも数を小さな整数の輪で表すパーティション関数の分野での研究や、複素平面上の解析的な関数であるモック・モジュラー形式の発明などが有名です。

ラマヌジャンの数学者としての特異な点は、天性の閃きとでも言うようなずば抜けた数学センスにあります。

ラマヌジャンは大学で数学などの教育を受けた事がなかったため、数学における”証明”などという学問としての数学に必要不可欠であるような概念すら会得していませんでした。

しかし、天性の数学的閃きによって生み出されたラマヌジャンの数式は、なぜか正しいものなのです。

さらに、師であるハーディや、同時代の数学界の巨匠であったダフィット・ヒルベルトでさえも、数学的発見をする際にはその前にすでに発見されていた数学的知識の文脈の上で、新たな発見をしたのに対し、ラマヌジャンは全くの無とも言うべき所から新たな数学的発見をしていた点でした。

その閃きの源泉はどこから来るのかと尋ねられたラマヌジャンは、

寝ている間にナーマギリ女神が教えてくれた

と言ったそうです。

ナーマギリ女神とは、ヒンドゥー教の女神ラクシュミーの事で、美や幸運を司る女神です。

ラマヌジャンが自身の閃きを謙遜してこう言った可能性もありますが、もしかしたら信心深いヒンドゥー教徒であったラマヌジャンの元に、本当にナーマギリ女神が新しいアイデアを教えていたのかもしれませんね。

このラマヌジャンの驚異的才能に対し、師であるハーディは

数学者としては、私が25点、リトルウッドが30点、ヒルベルトが80点、そしてラマヌジャンが100点だ。

と述べています。

これを言ったハーディ自身が数学界の権威であり、リトルウッドとはジョン・エデンサー・リトルウッドの事で、ハーディとともにケンブリッジで研究をしていた解析学の権威です。

さらに、当代一の数学者といわれていたヒルベルトでさえも80点で、100点のラマヌジャンには及ばないというのでした。

ハーディ自身は自らを謙遜していたとしても、リトルウッドやヒルベルトなど、名だたる数学界の権威を差し置いてラマヌジャンを評価している辺り、ラマヌジャンに対する評価が分かります。

そんなラマヌジャンでしたが、慣れないイギリスでの生活に、次第に体を壊してしまいます。

ハーディとの研究に夢中になるあまり、30時間休まず研究して、20時間眠ると言った不規則な生活をしていたといいます。

更にヒンドゥー教徒のしきたりで、徹底した菜食主義通して肉を口にしなかったことに加え、自分と同じ階級であるバラモンの人間が作った食べ物しか食べないといった食生活をしていた為、栄養不足に陥り、次第に衰弱していきました。

そんな時期の驚くべきエピソードに、衰弱したラマヌジャンによる”タクシー数”の発見があります。

療養所で治療を受けていたラマヌジャンを見舞う為、ハーディはタクシーでラマヌジャンの療養所へと向かいました。

数学者の性なのか、ハーディはそのタクシーのナンバーの数字に目が留まります。

それは1729で、ハーディにとって何の面白みもない数字でした。

療養所のラマヌジャンに面会したハーディは早速その事をラマヌジャンに話します。

ここに向かうのに乗ってきたタクシーのナンバーだが、1729だったんだ。
何とも特徴のない、つまらない数字だと思わないか?

それを聞いたラマヌジャンは即座に

そんな事はありません!
1729は2つの立方数の和で、2通りに表せる最小の数ではないですか!
とても興味深い数字です。

と即答しました。

1729は、

1,729= 123 + 13=103 + 93

と表すことが出来ます。

ラマヌジャンは、A = B3 + C3 = D3 + E3と表すことの出来るAの内、1729は最小のものであると即座に指摘したのでした。

この逸話から、二つの立法数の和としてn通りに表せる整数の内、最小の正の整数の事をタクシー数と呼ぶようになりました。

他のタクシー数としては、87,539,319や696,347,230などがありますが、ラマヌジャンは病に臥せっている中、ふいに出された1,729という数字に対して、そのような特性を見抜いたのです。

驚異的な数学の直感だと思いませんか?

しかし、結局体調を崩した後は回復する事もなく、1919年にイギリスからインドに返されるも、翌1920年に32才でこの世を去りました。

もし彼がもう少し長生きしていたならば、現在でも発見されていないようなとんでもない数学的発見をしていたかもしれませんね。

アラン・チューリング・・・コンピューターの原理を創造、ナチスの暗号を解いた”救国の科学者”

アラン・チューリングは20世紀初頭のイギリスで活躍した数学者です。

現在のコンピューターの原型であるチューリングマシンを開発。

更に、ナチス・ドイツの難攻不落の暗号と呼ばれたエニグマを解読した事で有名です。

幼少期から才能を表わし、特に数学や科学分野にずば抜けた才能を持っていました。

16歳の時にアルベルト・アインシュタインの研究論文を理解しました。

当時最高の数学者と呼ばれていたダフィット・ヒルベルトが提起した決定問題という数学の問題提起をしました。

ヒルベルトの決定問題

ある命題が真か偽かを判定するアルゴリズム(手順)が存在するかどうか

これはつまり、数学的命題が「証明可能」または「反証可能」であるかどうかを問うものでした。

より分かりやすく言うならば、

その数学には間違いがない、という事を数学で証明する

というもので、数学の完全性を問うものでした。

当時のヒルベルトの目論見としては、全ての数学的命題の真偽を数学自身に証明させることによって、自らが生涯を捧げてきた数学の完全性を証明するというものでした。

しかし、ヒルベルトの決定問題は後に、若き数学者クルト・ゲーデルの”不完全性定理”によって、そのようなアルゴリズムは存在しないと証明されてしまいます。

これはつまり、数学は自らが正しいという証明はすることが出来ないという事であり、数学の不完全性を示唆するものでした。

この事実は、”数学の完全性”を信奉してきた当時の数学界に衝撃を与え、”数学界の危機”とまで呼ばれるようになります。

このヒルベルトの決定問題の解決、更にはゲーデルの不完全性定理の証明方法として、チューリングは”チューリングマシン”という計算モデルを提示します。

チューリングマシンとは、言うなれば仮想の機械である”チューリングマシン”の存在を設定した論理的思考法の事です。

”チューリングマシン”には計算不可能な数学がないという定義の元、その”チューリングマシン”にもし計算が出来ない問題があるならば、この世の中に計算できない数学が存在するという事になります。

ここら辺の事柄は大変専門的で難しいため省略させていただきますが、興味のある方は関連書籍を読んでみてはいかがでしょうか?

この時にアラン・チューリングによって考えだされた”チューリング・マシン”の論文を読んで、衝撃を受けたハンガリー出身の科学者ジョン・フォン・ノイマンにより、現代の全てのコンピューターの原型である”ノイマン型コンピューター”が作られることとなります。

その後、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツやイタリア、大日本帝国など枢軸国との第二次世界大戦が勃発します。

戦争において重要な戦いの一つに、いかに相手の軍の作戦内容を入手するか、またいかに自軍の作戦内容を秘匿するかという情報戦があります。

事実、大日本帝国空軍がアメリカ空軍に大敗北したミッドウェー海戦は、アメリカ側に日本軍の暗号を解読されていた事が一番の敗因でした。

それほどまでに、戦争において情報戦は重要なのです。

その情報戦に勝利するべく、両陣営は絶対に相手に解読されない暗号を発明する事に注力します。

そして、ナチス・ドイツが生み出したのが、解読不可能・難攻不落と言われたエニグマ式暗号でした。

エニグマ暗号機の画像

エニグマ暗号機は1918年にドイツ人発明家アルトゥール・シェルビウスによって発明された、ローター式暗号機です。

ローター式暗号機とは、入力された文字を全く違う文字に変換する為に、回転するローターや鍵盤などが内蔵された暗号機であり、当時のアナログ式な暗号機の中ではトップクラスの難解な暗号を作ることが出来るものでした。

その詳しい仕組みは高度に専門的であるためここでは省きますが、詳しく知りたい方は関連書籍をご覧ください。

エニグマ式暗号の簡単な説明としては、エニグマで一文字打つたびにランダムな文字に変換され、同じ文字を続けて打ったとしても、全く違う文字になるという暗号です。

更には、1日ごとに暗号変換の組み合わせを変えていたため、解読する時間はわずかな時間しかありません。

この難攻不落のエニグマ暗号に対し、チューリング率いる暗号解読チームは僅かな糸口から解読作業を進め、ついには解読に成功します。

その解読の手法の一つとなったのが、ドイツ軍の暗号文の中に繰り返し使用される単語や語句を割り出し、その暗号化の為のキーを推測するというものでした。

そして、皮肉にも総統アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓う為に、ドイツ軍の文書の末尾に必ず添えられていた

Heil Hitlerヒトラー万歳)”

の語句がきっかけとなり、暗号は解読されます。

チューリングらにより暗号が解読されたことにより、イギリスを始めとした連合軍はナチス・ドイツとの戦闘を有利に進める事が出来るようになります。

そして、第二次世界大戦の終結後、チューリングはイギリス屈指の名門大学であるマンチェスター大学に招かれ、そこで最初期のコンピューターのひとつであるManchester Mark Iのソフトウェア開発に従事しました。

1949年に撮影されたManchester Mark Iの写真

By http://curation.cs.manchester.ac.uk/computer50/www.computer50.org/mark1/ip-mm1.mark1.html, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=9975689

そこでさらに、今日でも盛んに開発が行われているAI人工知能)についての様々な提唱を行います。

1950年にチューリングによって発表された”Computing Machinery and Intelligence”という論文では、AIの根本的な問題点と、コンピューターに知的行動をさせる方法について論じました。

さらに、コンピューターがどれだけ人間に近い思考をしているか評価するためのテストであるチューリングテストを考案しました。

チューリングテストは、人間の思考のフリを出来る現代のAIにはそのままは適用されませんが、それでもその概念などは現在の最先端のAI開発の場においても引き合いに出されます。

このように、イギリス含む連合国を勝利に導いた英雄であり、当時のイギリスにおいて最高の科学者の一人となったチューリングでしたが、1952年に19歳の男性を自宅に招いたとして警察に逮捕されてしまいます。

チューリングは学生時代、先輩の男子生徒に恋をして以降、同性である男性に恋心を抱く同性愛者だったのです。

そして、当時のイギリスでは同性愛は違法であった為に、同性愛の行為を咎められたチューリングは逮捕されたのでした。

裁判の結果は有罪で、当時同性愛の矯正に役立つと考えられていた女性ホルモンを投与され、保護観察に処されました。

しかし、チューリングはこの屈辱に耐えられず、そしておそらくはホルモンバランスの乱れも手伝って精神を病んでしまい、1954年に青酸化合物による服毒自殺を遂げてしまいます。

歴史に残る天才にして、イギリスを救った英雄の死としては、あまりに悲惨なものでした。

しかし、2009年に当時のイギリス政府の、国を救った英雄であるチューリングに対する、当時のLGBTに対する無理解から生じた不当な扱いに対しての抗議が起こり、結果として数千もの署名が集まります。

そして、イギリス政府は公式に当時の政府の対応を誤りであったと謝罪します。

そして、チューリングの死からおよそ60年後の2013年に、イギリスの国家元首エリザベス2世によるチューリングに対する罪状への正式な恩赦の発行によって、チューリングの名誉は完全に挽回されたのでした。

ジョン・フォン・ノイマン・・・”火星人”と称される悪魔の頭脳を持った大天才

LANL – http://www.lanl.gov/history/atomicbomb/images/NeumannL.GIF (アーカイブされたコピー), Attribution, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3429594による

Unless otherwise indicated, this information has been authored by an employee or employees of the Los Alamos National Security, LLC (LANS), operator of the Los Alamos National Laboratory under Contract No. DE-AC52-06NA25396 with the U.S. Department of Energy. The U.S. Government has rights to use, reproduce, and distribute this information. The public may copy and use this information without charge, provided that this Notice and any statement of authorship are reproduced on all copies. Neither the Government nor LANS makes any warranty, express or implied, or assumes any liability or responsibility for the use of this information.

続いて紹介するのは、ハンガリー出身のユダヤ系の科学者であるジョン・フォン・ノイマンです。

その超人じみた頭脳から、

火星人

悪魔の頭脳

完璧な機械

など、数多くのあだ名がつけられました。

現代の日本のネット上の議論でも、歴史上で最も頭の良かった人物として必ずと言ってもいいほど名前が挙がる人物です。

ジョン・フォン・ノイマンは、1903年にハンガリーの首都ブタペストにて生まれます。

ノイマンの父親はハンガリーに移住したユダヤ人で、銀行に所属する弁護士でした。

父親も教養のあるエリートの家系に生まれたわけですね。

そんな弁護士の父の下、ノイマンは幼少期から徹底した英才教育を受け、幼少期からラテン語ギリシア語をマスターし、8才までに微分積分を理解します。

さらには父親の書斎にあった40冊を超える世界史の本を読破した後、その内容を詳細に説明できたというとんでもない神童ぶりを発揮しました。

この頃のノイマンのエピソードとして、

・分厚い電話帳のページをパラパラとめくり、そのページの数を全て足した総和を瞬時に導き出して遊んでいた

・同じく語学に堪能で教養がある父親と、古代ギリシア語でジョークを言い合って遊んでいた。

・分厚いゲーテやディケンズの小説を丸暗記し、一字一句間違えずに暗唱する遊びにハマっていた。

など、驚異的なエピソードが残っています。

一説には、ジョン・フォン・ノイマンはカメラアイとも呼ばれる瞬間記憶能力を持っていたといわれ、一度読んだ文章などをまるで写真のように保存し、引き出すことが出来たと言われています。

このように、興味のある分野において抜きんでた記憶力を持っていたノイマンでしたが、興味のない事にはとことん関心を持たない性格であったと言われています。

父親に施された英才教育の内、身体を鍛える為にフェンシングや、音楽的感性を磨くためにピアノも習わされたようですが、それらには全く興味がわかなかったようで、全てサボってしまいます。

また後年、自らの住んでいる家の家具の配置を全く記憶していないなど、興味のない事柄にはとことん無関心だったようです。

人間の脳の限られた記憶のスペースを、興味のある分野の為に全て使っていたようですね。

そんなノイマンは、当然の事ながらヨーロッパでの中等教育の場であるギムナジウムにおいても飛びぬけた才能を発揮しました。

そして、ノイマンの並外れた数学の才能を見抜いた担当の教師から、より専門的な数学の教育を受けられるように、ハンガリーで一番の名門校であるブタペスト大学の数学者にノイマンを引き合わせました。

数学者たちもノイマンの素養を見抜き、彼らによる個人授業を受け、数学知識を吸収していきます。

その後ギムナジウムを首席で卒業し、ブタペスト大学に入学。

23才で数学化学物理学の博士号を取得します。

1926年、ノイマンの数学論文を読んだ当時の数学界の権威ダフィット・ヒルベルトがノイマンに興味を示し、自身のいるドイツのゲッティンゲン大学にノイマンを呼びます。

ヒルベルトも即座にノイマンの才能を気に入り、自身の学派にノイマンを引き込みました。

そして、ヒルベルト学派で最有力の数学者となったばかりでなく、ベルリン大学にて史上最年少の私講師に選ばれるなど、学者としてこれ以上ないほどのエリート街道を突き進みました。

しかし、そんなドイツでは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツが勢力を伸ばしていました。

ナチス・ドイツはユダヤ人迫害を公然と掲げ、ドイツ国民を扇動します。

ユダヤ人であったノイマンはナチスの迫害を逃れる為にアメリカ合衆国に移住、プリンストン高等研究所の4人のメンバーの一人になります。

因みに、その4人の内の一人は、後にご紹介するアルベルト・アインシュタインでした。

ノイマンはアメリカ政府の科学顧問として、数々の実験や研究に参加します。

中でも、政府の研究機関であるロスアラモス研究所において、リーダーであったロバート・オッペンハイマーの下、ニールス・ボーアエンリコ・フェルミなどと共に、原子爆弾を開発するプロジェクトであったマンハッタン計画に協力するなどしました。

そこで開発された原子爆弾が、太平洋戦争末期の日本の広島と長崎に落とされたことは説明するまでもありませんね。

しかし、このように原子爆弾の開発に参加した事が、結果としてノイマンの寿命を縮める結果となってしまいます。

当時はまだ原子爆弾の爆発に伴う放射能の危険性について十分に知られておらず、数々の原子爆弾の実験に参加していたノイマンは知らずの内に被曝していました。

結果、ノイマンの身体は癌に侵され、1956年に56才の若さでこの世を去ります。

数々の政府の機密情報に触れてきたノイマンは、臨終の際にも国家の秘密を話してしまうのを避けるために家族に看取らせる事を許されず、アメリカ政府高官の監視の下、息を引き取ったと言います。

天才は非業の死を遂げる事が多いというのは、本当の事のようですね。

ノイマンが生前に残した業績はざっと上げただけでも、数学物理学経済学工学計算機科学気象学政治学など多岐に渡ります。

そしてそれらの業績の一つ一つが突出したものであり、

・複数の主体が関わる際の意思決定の過程を、数理モデルで解き明かそうとするゲーム理論の発明。

・現在の気象予報に必要不可欠な数理モデルとコンピューターを用いた数値予報の開発と、将来の地球温暖化の予測。

アラン・チューリングチューリング・マシンの発想を下に開発された、現在のほとんど全てのコンピューターの動作原理を持つノイマン型コンピューターの開発への関与。

など、現代の科学文明に欠かせないいくつもの業績を上げています。

そんなノイマンの天才ぶりを示すエピソードが数多く残されています。

ジョン・フォン・ノイマン 天才エピソード

英語、ドイツ語、ハンガリー語、フランス語、イタリア語の他、ラテン語やギリシア語などの古典語を含めて7か国語を操るマルチリンガルであった。

初期のプログラミング言語であり、現代のプログラミング言語よりも難解なプログラミング言語であるアセンブリ言語を、頭の中で構築し、同じく頭の中で修正した。

最初期のコンピューターであるEDVACに、計算の速さを競って勝利した。

優秀な物理学者が悪戦苦闘するほど難解な、黒板一杯に書かれた積分の問題を、一瞥しただけで解いた。

アインシュタインやハイゼンベルクなど、その当時の天才たちに、彼らの中で誰が一番天才かと尋ねたところ、ノイマンだという答えが一番多かった

・当時開発中であった水爆の効率概算のため、エンリコ・フェルミは大型計算尺で、リチャード・P・ファインマンは卓上計算機で、ノイマンは虚空を見つめて暗算で計算をしたが、ノイマンが一番早く、なおかつ正確な値を出した。フェルミ、ファインマン共にノーベル物理学賞受賞者

など、信じられないようなエピソードが数多く残されています。

まさに宇宙人と呼ばれてもおかしくない存在で、歴史上の天才の中でも別格な存在だと言えるのがこのノイマンなのではないでしょうか。

アルベルト・アインシュタイン・・・世界の姿を変えた天才物理学者

最後にご紹介するのが、20世紀最高の頭脳との呼び名も高いアルベルト・アインシュタインです。

アルベルト・アインシュタインは、1879年にドイツ帝国(当時)のユダヤ人の両親の下に生まれます。

幼少期の頃のアインシュタインは、とっくに他人と会話をしてもいいはずの5歳ころまで言葉を話さなかったと言われており、その事で両親を心配させたものの、次第に会話できるようになったと言われています。

一方、数学に関しては並みの人間よりも早くに関心を持ち、9才で直角三角形の辺の関係を表わす定理であるピタゴラスの定理に興味を持ち、試行錯誤したあげく、なんと自力でピタゴラスの定理の証明をしてしまいます。

さらに12歳ころにはユークリッド幾何学微分・積分などをマスターするなど、自然科学分野において突出した才覚を見せていました。

その後、両親の仕事の都合などで住居をあちこち移転した後、スイスの名門校であったチューリッヒ連邦工科大学を受験するも、何と不合格となってしまいます。

後のアインシュタインを知る我々からすれば、にわかには信じられませんよね。

これは、数学と物理学の点数は最高レベルであったものの、その他の科目と合わせた総合点が及第点に届かなかったためであると言われています。

しかし、アインシュタインの数学と物理の試験結果を知った大学側は、一定の条件をこなしたならば、来年度に入学する事を許可します。

アインシュタインはその条件を満たし、無事チューリッヒ連邦工科大学への入学を果たします。

大学時代のアインシュタインは、興味のある講義には熱中し好成績を修めるものの、興味のない講義にはまるで手を抜くという様子だったようです。

また、度々科学実験をしては爆発を起こして騒ぎになるなど、一風変わった生徒であったようです。

1900年に無事大学を卒業したアインシュタインは、友人の父親の紹介で、スイスの都市であるベルンにて、特許庁の監査官の職を得ました。

アインシュタインは特許庁の職員として働く傍ら、物理学の勉強と研究を続けていきます。

そして1905年、アマチュア物理学者として研究を続けていた26歳のアインシュタインは、それまでのニュートン物理学の常識を覆すような研究論文を立て続けに3つ発表します。

それが、

光量子仮説

ブラウン運動

特殊相対性理論

に関しての論文でした。

光量子仮説とは、光の性質に関しての仮説で、これまで考えられていた”光は波動である”という定説を否定し、光子と呼ばれる量子としてふるまう可能性を提案したものです。

これは、後の物理学の一大分野である量子力学への道を開く仮説となります。

ブラウン運動とは、19世紀の科学者であったロバート・ブラウンによって観察された運動で、花粉の粒子などといったごく微小な粒子が、予測不能な全くのランダムに動く現象です。

アインシュタインはこれを、粒子が周囲の分子などと衝突する事により引き起こされるのではないかと考え、方程式を使う事で確率的に予測する事が可能であると提唱したのです。

そして有名な特殊相対性理論は、

・光の速さである光速は、観測者がどのような速度で移動していようとも一定(秒速約30万キロメートル)である。

・限りなく高速で動く物体にとっては、静止している物体よりも遅く時間が進むという時間の相対性について。

・限りなく高速で物体が動くと、動いている物体は進行方向に沿って収縮し、運動エネルギーを持つ事で重さが増加するという性質

・時間と空間は一体であり、不可分の関係にある事

などを述べたものでした。

この特殊相対性理論は、それまで信じられていた”時間と空間の絶対性”を否定し、それらが伸び縮みする”相対的”なものであるという事を示し、反対に光の速さである光速は、どの移動物体から観測しても絶対的な速さである”秒速約30万キロメートル”で進むことを示しました。

特殊相対性理論は当時の物理学の知識を根底から覆すような理論であった為、アインシュタインが特許局の一局員であった事も手伝って当時の物理学界からは注目されませんでした。

しかし、量子論の創始者のひとりであり、当時の物理学界の重鎮であったマックス・プランクが特殊相対性理論を指示したため、一気に注目が集まります。

この特殊相対性理論を利用して作られたのが、現在のGPSシステムです。

さらに1907年、世界一有名な式とも言える”E = mc2”を発表します。

E”はエネルギー

m”は重さ

c”は光の速さである光速度で、

エネルギーの総量は物体の重さと光速度の二乗を掛け合わせたものである

という事を示しています。

この式の表す最も重要な点は、”物体の質量はエネルギーとして解放しうる”という事を示している点であり、これが後の原子力エネルギー核エネルギーの分野に応用されることとなります。

その後、1909年に勤めていた特許局を辞職し、チューリッヒ大学の助教授となり、プラハ大学教授を経て、1912年母校であるチューリッヒ連邦工科大学の教授となります。

そして1913年にプロイセン科学アカデミーの会員となり、ベルリンへと移住しました。

そして1916年、特殊相対性理論を発展させた一般相対性理論を発表します。

一般相対性理論とは重力の性質について説明したもので、大きな質量が周囲の空間時間を曲げ、物体はその曲げられた時空間の中で、質量に向かって落下するように移動するという事を説明するものです。

この一般相対性理論により、天体から発せられた光が、別の天体の重力によって曲げられることにより、レンズ越しのように見える効果である重力レンズ効果など宇宙の様々な現象を説明する事が可能となりました。

銀河団Abell 1689によって生じた重力レンズ効果

遠方の銀河の光がAbell 1689の重力により曲げられ、円状に引き伸ばされている

そして1921年、日本への旅行の為に乗船した船の上で、光電効果と相対性理論に対する業績の為にノーベル物理学賞を授与されました。

アインシュタインは各国を旅しましたが、中でも日本を痛く気に入り、日本人の美意識やの文化などを賞賛しています。

1930年にベルリン郊外に別荘を建てるなど、主にドイツを中心に活動していたアインシュタインでしたが、1933年にユダヤ人迫害を公約に掲げるアドルフ・ヒトラー率いるナチスがドイツで政権を握ると、ユダヤ人であったアインシュタインはドイツから離れ、二度と戻ることはありませんでした。

その後、ベルギー、スイス、イギリスなど諸国を巡り歩いた後、アメリカ合衆国に招かれプリンストン高等研究所の教授となりました。

その後、アメリカに集まった著名な研究者たちと共に物理学の研究を続け、1936年には物理学者のネイサン・ローゼンと共に、現在では”ワームホール”と呼ばれる、離れた空間と空間をトンネル状の構造体で結びつける事により、光の速さを超えた速度で移動できるとする”アインシュタイン=ローゼン橋”のアイデアを発表しました。

そして1939年、第二次世界大戦が勃発すると、当時のアメリカ大統領であったフランクリン・ルーズベルトが、アインシュタインに原子力の軍事転用の可能性について尋ねます。

アインシュタインは原子力を用いた兵器核爆弾)の製造は可能であると返答し、アメリカ合衆国では総力を挙げて核爆弾の製造に取り掛かりました。

そして1945年、日本の広島長崎に立て続けに原子爆弾が投下され、軍民問わず数十万を超える日本人が亡くなります。

これを知ったアインシュタインは呆然自失とします。

アインシュタインは直接的には原子爆弾の開発に関与していないものの、原子爆弾を製造する為の元となった理論は、他ならぬE = mc2の方程式であり、間接的にですがアインシュタインも関与していたという事でもありました。

そして、その新兵器が自らが愛した日本に投下され、何十万もの罪のない民間人を蒸発させたのです。

後にアインシュタインは、日本の物理学者で、後に日本人初のノーベル賞を受賞する事になる湯川秀樹に、

原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった。こんな私を許してください

と、泣いて許しを請うたと言います。

更に、亡くなる前年の1954年には、

もしヒロシマとナガサキのことを予見していたなら、1905年に発見した公式は破棄していただろう

という言葉を残しています。

しかし、先に述べた通りアインシュタインは核爆弾の製造には一切関与していないのであり、また彼のE = mc2の公式はその後の人類の技術発展になくてはならない公式でもありました。

確かに、原子爆弾という兵器を生み出す要因となってしまった事は事実ですが、それ以上に文明の発展に関与した事は言うまでもありませんね。

アインシュタインはその贖罪の為、1955年の4月11日に著名な哲学者であるバートランド・ラッセルと共に、核兵器の廃絶と科学技術の平和的利用を訴えるラッセル・アインシュタイン宣言に署名します。

そして1週間後の4月18日に、その平和宣言への署名が自身に課せられた最後の役割であったかのように、76才でその生涯を終えました。

天才アインシュタインには、その知能を伺わせるようなユニークなエピソードが残されています。

ある日、科学知識のない一般人に

相対性理論の中の”時間の相対性”とは何ですか?

と尋ねられたアインシュタインは、

あなたは魅力的な女性と一緒にいる時、1時間が1分ほどにしか感じられないでしょう。
反対に、熱いストーブに手を置かなければいけない時、1分が1時間にも感じられると思います。
それが時間の相対性です。

と述べたと言います。

とても端的に、かつ一般人にも分かりやすく”時間の相対性”について説明した例で、素晴らしいですね。

”本当に頭のいい人は頭の悪い人にも分かりやすく説明できる”

とはよく言いますが、まさにアインシュタインがそうでしょう。

更に、第二次世界大戦後にとある人物から

もし第三次世界大戦が起きたとしたら、どのような兵器が使われると思いますか?

と問われたアインシュタインは、

第三次世界大戦で使用される兵器は想像もつきませんが、第四次世界大戦で使用される兵器については想像できます。
それは石とこん棒です。

と言ったとされます。

これは、

”もう一度第二次世界大戦のような大戦が繰り返されたなら、間違いなく人類の文明が滅ぶ。その後の戦争は滅んだ文明の中で、石とこん棒のような原始的な武器で戦う事になるだろう”

という事です。

頭のいい人の答えというのは、その知性から生み出されるウィットに富んでいて、とても面白いものですね。

まとめ

いかがだったでしょうか。

この記事では、古今東西、科学分野で活躍した12人をご紹介しました。

彼らの飛びぬけた頭脳が無ければ、現在の私たちの豊かな生活は存在しえませんでした。

しかし、そんな天才たちとて人間。

私たちと同様苦悩する事もありましたし、また天才だからと言って幸せであったとも限りません。

そして、私たちにも彼らに負けずとも劣らぬような、素晴らしい才能がきっとあるはずです。

天才たちに共通する点は、自分の興味のある事柄を、周囲の目を気にせずとことん追求する点にあります。

重要なのは、自分にとって得意な事を探し続け、一度見つけたなら彼らと同様、とことん追求する事なのではないでしょうか?

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

syuya

自称”世界最弱の男”
何もかもを諦めていた男が、一念発起しブログを開始。
日々くじけそうになりつつも、読書から学んだ事や考え方などを日本中の人々と共有するべく、日々ブログを続けています。
よろしくお願いいたします。

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