こんにちは、syuyaです。
人間の社会生活において、なくてはならないツールである”文字”。
私たちは当たり前のように文字を使って意思疎通をしていますが、実はこれって凄い事ですよね。
当然、地球上の生物で人間以外は文字を使用しませんし、文字を使用する事こそ人間の特徴であると言えます。
また、文字の違いひいては言語の違いにより、人類は語族(言語グループ)というグループ分けをされ、同じ語族集団に属する事が我々にとっての重要なアイデンティティの一つとなります。
語族グループで色分けされた世界地図
英語版ウィキペディアのIndustriusさん.Later version(s) were uploaded by 英語版ウィキペディアのMttllさん. – Image:BlankMap-World.png by User:Vardion, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24185859による
そういった意味でも、文字というものは我々人類から切っては離せない、重要なものであることが分かります。
この記事ではそんな文字の成り立ちから、それらがどのように発展し、そして現在のように多数に枝分かれしたのかを皆様にご紹介したいと思います。
この記事であるpart1ではかつて使われていたものの、現在は使われなくなった文字をご紹介。
次の記事であるpart2では、成立した後現在でも使われている文字をピックアップしてご紹介します。
全ての文字をご紹介しようとすると膨大な量に及ぶため、メジャーであると思われる文字のみ厳選してご紹介します。
原文字(proto writing)
人類が文字を使い始めた時期ははっきりしていませんが、文字の原型のようなものを使い始めたのが、紀元前七年千紀の前期新石器時代だとされています。
それらは、後に原文字(proto-writing)と呼ばれる事となります。
まだ正確には文字とは定義されず、自然界にあるものを象形的にかたどった絵文字の性質が強かったと考えられます。
フランス ラスコーの壁画角の生えた牡牛が後のアルファベットの”Y”の原型であると考えられている
By JoJan – Self-photographed, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=121647879
これら象形的な原文字は、ヨーロッパのみならず中国などでも発見されている為、世界で同じような情報伝達方法を編み出したという事になります。
原始人がどうやって仲間に情報を伝達しようかと考えた時、まず考えるのが見たままの絵を描く事だろうというのは理解できますよね。
同年代に中国で書かれたと思われる賈湖契刻文字(かこけいこく)が見つかっており、人類が意思疎通のための手段として、この時期に文字の原型を開発したものと思われます。
賈湖契刻文字の例
後の甲骨文字の原型と考える学者もいる
これらの原文字は視覚的にはとても分かりやすく、その記号の表わす意味を事前に知らずとも、それぞれの記号が何を表わしているのか、おおよその見当をつけることが出来ます。
しかし、これらの絵を意思疎通の為にいちいち描くのはかなりの労力を必要とする上、相手の解釈によっては誤った情報が伝わる事になるのは想像に難くないですよね。
そこで、これらの絵文字を簡略化・記号化した”文字”が、各国コミュニティで形成されていく事になりました。
ウルク古拙文字
粘土板に描かれたウルク古拙文字(右側のシンボル)
https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/meopotamia-moji-tanjou
お次にご紹介するのはウルク古拙文字です。
判明している中で”文字”として認められている世界最古の文字がこの”ウルク古拙文字”です。
紀元前4千年紀のシュメール人の都市国家であるウルクで使用されていたと考えられています。
ウルクは現在のイラクのサンナー県サマーワ市から、東に30キロメートル進んだ地点に存在した古代都市です。
ウルクは狩猟生活から農耕生活へと生活容態を変化させた人類が、一か所に定住するようになって初めて形成された都市のひとつであると考えられています。
都市を形成し社会秩序が作られる過程で、物事を記録する必要性に迫られたウルクの人々は、次第に記録のためのツールとしての文字の必要性に迫られていったという訳です。
古拙文字はまだ絵文字としての性格が強く、時代が下っていくにつれてより記号化されていき、後にオリエント世界で広く使われる楔形文字へと発展していきます。
そして、楔形文字はエジプトのヒエログリフと合わさり、中東や欧州の全ての文字の原型となっていきます。
ヒエログリフ
ヒエログリフ(神官文字)
画像引用 https://rekishinosekai.hatenablog.com/entry/meopotamia-moji-tanjou
お次に紹介するのはヒエログリフ(神官文字)です。
古代エジプトにおいて、主に高い身分の人間に使用されていた文字がヒエログリフ(神官文字)です。
その歴史はとても古く、エジプト初期のファラオである紀元前3100年頃のナメル王の時代に開発され、宗教的な文書や記念碑に使用されます。
メソポタミアのウルク古拙文字と並び世界最古の文字の一つとされており、後の時代の多くの文字の祖先となりました。
その後、時代が下るにつれ文字としてのヒエログリフはより効率化されていきます。
絵文字的な特徴が強かったヒエログリフでしたが、筆記する際にとても手間と時間がかかったため、後に簡略化されたヒエラティックという文字が、古代エジプトの神官などの上流階級によって使われだします。
古代エジプトの神官に使用されていたヒエラティック
ヒエラティックはエジプトで広く普及し、公式な文書のみならず数学や医学、宗教などのテキストを書く際に用いられました。
そして、紀元前7世紀から紀元前5世紀には、神官階級以外の一般の民衆が使用し、より一般的な文書に使われるデモティックという文字が生まれました。
デモティックが書かれたオストラコン
One dead president, David Liam Moran – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2736613による
このように古代エジプト時代からナイル川流域で使用されてきたヒエログリフでしたが、次第に文字としての需要が減っていきます。
紀元前330年代のアレクサンドロス大王による征服後のギリシア人王朝であるプトレマイオス朝による統治、そしてその後のローマ帝国による統治などを経て、同地域にはギリシア文字が浸透していきます。
そして次第にヒエログリフは使用されなくなり、紀元後4世紀頃を境にヒエログリフの文章は残っていません。
その後はヒエログリフを読める人間もいなくなり、解読不能な古代文字として後世に残りました。
長らく解読不能の文字でしたが、18世紀のフランス皇帝ナポレオンがエジプトに遠征した際に、ギリシア語とデモティックとヒエログリフが並記された石碑であるロゼッタ・ストーンが発見されます。
ロゼッタストーン
上からヒエログリフ、デモティック、ギリシア語で、同じ内容の文章が書かれている
このロゼッタストーンを元に、19世紀初頭のフランスの考古学者シャンポリオンが解読に成功しました。
そして、王墓などに書かれた碑文を解読する事により、長らく謎に包まれていた古代エジプトの秘密が明らかとなったのです。
楔形文字
楔形文字
お次に紹介するのは楔形文字です。
古代メソポタミアの一都市であったウルクで使われていたウルク古拙文字は、時代を経てメソポタミア全土に広がります。
そして、その過程で楔のような特徴的な形へと変化したものが楔形文字です。
特徴的な楔形の文字は、粘土板に植物の葦の茎を加工して作ったペンを用いて筆記した結果、生まれたものです。
下記のYouTube動画では、実際に粘土に楔形文字を書いている過程が動画にされており、古代のメソポタミアの人々がどのように楔形文字を書いていたかがとても詳しく分かります。
紀元前2500年頃の青銅器時代にはすでに使われていました。
その後、このメソポタミア周辺で勃興したアッカド帝国、バビロニア帝国、アッシリア帝国、ヒッタイト帝国、そしてアケメネス朝ペルシア帝国などでも公用文字として使用され、広く流通しました。
また、世界最古の英雄叙事詩であるギルガメシュ叙事詩や、
”目には目を、歯には歯を”の同害復讐法で知られるハンムラビ法典もこの楔形文字で書かれています。
このように、一時は国際的に使われていた楔形文字ですが、度重なる支配国家の交代により使用言語が上書きされていったことと、読み書きするのにかなりの専門知識と手間がかかる文字と書記体系であった事から、次第に衰退していきます。
その後、メソポタミア地域ではフェニキア文字やアラム文字、ギリシア文字といった表音文字であるアルファベットが使用されるようになりました。
そして最後に楔形文字を使用していた国家であったアケメネス朝ペルシア帝国が、マケドニアのアレクサンドロス大王に滅ぼされると、楔形文字を現役で使用する国家が亡くなり、楔形文字は歴史から姿を消しました。
役目を終え最早使われなくなって久しい楔形文字ですが、今なおメソポタミア地域から出土する粘土トークンには楔形文字が書かれており、当時の記録を読み解くために重要な資料となっています。
ほぼ同時代に発明されたエジプトのヒエログリフと並び、世界最古の文字の一つとして数えられています。
原エラム文字
原エラム文字が書かれたタブレット
Louvre Museum, CC BY 2.5 https://creativecommons.org/licenses/by/2.5, via Wikimedia Commons
お次に紹介するのは原エラム文字です。
原エラム文字は紀元前3200年から紀元前2700年頃にイラン高原で使われていた文字です。
最初期の楔形文字から枝分かれした文字で、楔形文字とは多くの共通点を持っています。
また、イランで最初に現れた独自の文字であるとされています。
このように独自の体系を持っていた原エラム文字ですが、とても難解な書記体系を持っていたため扱いづらい言語でした。
そのため、原エラム文字が枝分かれした最初期の頃に比べ、格段に改良されメソポタミアで使用されていた楔形文字を、エラムの言葉に合うように更に改良したエラム楔形文字に置き換えられる形で衰退していきました。
甲骨文字
http://kousin242.sakura.ne.jp/mt008/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E7%94%B2%E9%AA%A8%E6%96%87%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/
お次に紹介するのは甲骨文字です。
甲骨文字は、主に中国の古代の遺跡から出土する亀の甲羅や獣の骨に描かれた記号文字です。
使用されていた時期はエジプトのヒエログリフやメソポタミアの楔形文字と同じくらい古く、また極めて単純な図形を象った象形文字でした。
この半ば絵文字と言ってもいいような象形文字が、後に中国を始めとした東アジア一帯で使用されることとなる漢字の原型となります。
古代中国において吉凶を占う占卜(占い)や祭事などの際に、この甲骨文字が書かれた亀の甲羅や獣の骨などを火にくべて、そのひび割れ方で未来を占っていたというのが有力な説となっています。
このように歴史的にとても重要な文字である甲骨文字ですが、実はほんの100年前まではとるに足らない落書きの類だと思われていたのです。
この甲骨文字を重要なものであると気づき、最初に研究を行ったのは、清朝末期の1899年の金石学者で古物愛好家の王懿栄(おういえい)と、その友人で作家で考古学者であった劉鶚(りゅうがく)でした。
ある日王懿栄はマラリアの治療のため、漢方医学において竜骨として知られる大型動物の化石化した骨を薬局で購入します。
漢方の材料に使われる”竜骨”
https://ohsugi-kanpo.co.jp/kanpo/kenbun/ryuukotu
しかし、王懿栄がよく見ると購入した竜骨には、なにやら絵のような文字のような不思議な文様が描かれている事に気づきます。
これこそが甲骨文字だったのです。
なんと古代の文字が書かれた貴重な資料が、その本当の価値の分からない人々によって漢方薬の材料とされていたのでした。
その事実を把握した王懿栄と劉鶚の二人は、急いで甲骨文字の書かれた竜骨を収集し、それらをもとに研究に没頭します。
その結果、どうやら甲骨文字が古代中国の王朝である殷や周の時代に使用されていた漢字の祖先であるかもしれない事を突き止めました。
事実だとすれば、歴史的な大発見です。
そこまで突き止めた王懿栄と劉鶚の二人ではありましたが、1900年から始まった、清朝の滅亡の原因ともなった義和団の乱の混乱の中で、二人はそれぞれ亡くなってしまいました。
その後、二人が集めた甲骨文字が書かれた竜骨の数々は、考古学者であった羅振玉(らしんぎょく)という人物の手に渡ります。
中国で辛亥革命が起こり、清朝が倒れ中華民国が成立すると、羅振玉はそれらを持って日本に亡命。
亡命先の日本で研究を続けた結果、これらの甲骨文字が書かれた竜骨は、現在の中国河南省安陽市小屯の辺りで出土していたことを突き止めます。
その後、このあたりを発掘したところ、とてつもなく古い年代の遺跡が発見されました。
詳しく調査したところ、当時の中国では伝承でのみ伝わっていた古代中国の国家である殷の都市の遺跡である事が判明します。
こうして1928年に、古代中国の王朝であった殷の遺跡であった殷墟が安陽市小屯で発見されたのです。
殷墟の遺跡
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-016.html
これにより、長らく伝説上の国家とされていた殷の実在が確認されたのです。
殷墟には他にも大量の甲骨文字が書かれた物品が見つかり、甲骨文字の研究が一気に飛躍する事となりました。
しかし、貴重な文字が書かれた竜骨が、生活のためとはいえ漢方薬の材料として売りに出されていたとは驚きですね。
契丹文字
https://www.weblio.jp/content/%E5%A5%91%E4%B8%B9%E6%96%87%E5%AD%97
お次に紹介するのは契丹文字です。
契丹文字は10世紀から12世紀にかけて、中国北部からモンゴル高原にかけての地域を支配していた遊牧民族であった契丹族によって使用されていました。
緑の箇所が遼の最大領土 西暦1000年頃
Gabagool – 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6608712による
歴代の中華王朝を築いた漢民族によって使用されていた漢字を参考に開発された文字です。
契丹文字には二種類あり、契丹族の王朝である遼を建国した耶律阿保機(やりつあぼき)が制定した契丹大字と、その弟の耶律迭剌(やりつてつら)が制定した契丹小字の二種類が存在しています。
遼を建国した耶律阿保機は、当時から優れた文化や政治制度などを持っていた漢民族の王朝の文化・風習を徹底的に吸収し、自らが建国した国家の運営に利用しようとします。
契丹大字はそんな取り組みの中生まれた文字であり、契丹人の言葉を表すために開発された表意文字でした。
それに対し、聡明な事で知られた耶律阿保機の弟である耶律迭剌が、契丹大字では不便であった部分を、ウイグル人が使用していたウイグル文字を参考に改良したものが契丹小字であり、こちらは表音文字でした。
文字数は現在知られている中で、1600文字から1700文字ほどが確認されています。
10世紀最初の量の建国以降、契丹人によって使用されていた契丹文字ですが、同じく北方民族であった女真族の国家である金に遼が滅ぼされると、次第に契丹文字の使用者は減少します。
そして、12世紀頃の記録を最後に、契丹文字が書かれた記録はなくなります。
漢字との対照表が残っているにも拘らず、未だ未解明の文字です。
西夏文字
https://the.nacos.com/information/character/charset/090.php
お次に紹介するのは西夏文字です。
西夏文字は11世紀から13世紀にかけて、中国西北部に存在した西夏という国で使用されていた文字です。
西夏は中国の西北部に、古代から住んでいた羌と言われる異民族(漢民族以外)のひとつであったタングート族によって建国された王朝でした。
11世紀の東アジアの様子 左上の赤い場所が西夏
当時の漢民族の王朝であった宋に最初は恭順していたものの、徐々に対立を深め、結果西夏独自の統治制度や軍制度を整備する事となりました。
西夏文字はその過程で制定された文字であり、タングート人が話していたタングート語を表記するために、漢民族が使用していた漢字を変形・改良して開発した文字です。
全部で6,000文字ほどの文字を持っています。
国としての西夏は13世紀にモンゴル帝国によって滅ぼされますが、西夏文字自体はその後300年近く使用され、最後に西夏文字が使われた文献は、1502年に西夏文字が記された石碑が見つかっています。
漢字に似ているようでどこか違う西夏文字は、漢字を日常的に使っている我々日本人からすればどこか違和感を感じる文字ですね。
女真文字
https://baike.sogou.com/m/fullLemma?lid=622665
お次に紹介するのは女真文字です。
女真文字は上記の遼を滅ぼした女真族の国家であった金という国で使用されていた文字です。
契丹文字と同様に漢民族の漢字を参考に作られ、また契丹文字と同様に女真大字と女真小字の二種類の文字が存在しています。
1119年、金の建国者である完顔阿骨打の命により、契丹文字や漢字を参考に作られた文字であり、両者の影響を色濃く受け継いでいます。
また、女真大字と女真小字があり、それらの関係は日本語の漢字と仮名文字の関係に等しい関係であるようです。
その後、金の全盛期を築いた第5代皇帝世宗により、女真文字による教育が推進された事により女真文字は広く普及しますが、13世紀より始まったモンゴル帝国の侵攻により金は滅亡します。
その後、15世紀頃までは女真文字を理解する人がいたようですが、それ以降は使われなくなりました。
インダス文字
Siyajkak – siyajkak drew this picture by pencil and recopy, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1957153による
お次に紹介するのはインダス文字です。
インダス文字は紀元前2600年から紀元前1900年頃まで、現在のインド・パキスタン・アフガニスタン周辺で栄えていたとされるインダス文明で使用されていた文字です。
インダス文明は中国の黄河文明、中東のメソポタミア文明、エジプトのエジプト文明と並び、世界4大文明に数えられている古代文明ですが、その詳細については他の4大文明と比べ謎に包まれています。
というのも、インダス文明で使用されていたインダス文字が未だ未解読である為です。
現在の所インダス文字のまとまったテキストは見つかっておらず、ごく短い単語のインダス文字しか見つかっていない為、解読しようにも出来ない状況が続いているのです。
現在の所分かっている事は、漢字のように象形文字かつ表語文字であるという事くらいであり、行政文書などの公的な記録や、宗教的なテキストに使われたであろう事しか分かっていません。
インダス文明は他の文明との接点もなく、その滅亡原因など謎に包まれている為、インダス文字が書かれたテキストの発見と、インダス文字の解読が待望されています。
原シナイ文字
https://note.com/qvarie/n/n7bf9ea8498f8
お次に紹介するのは原シナイ文字です。
原シナイ文字は紀元前2000年から紀元前1500年頃、エジプトのシナイ半島のサラービート・アル=ハーディムという場所から発見された刻印に書かれていた文字です。
古代エジプトのヒエラティックと多くの類似点がある事から、ヒエラティックから派生した文字であるという説もあります。
また、現在地球上に存在する全ての音素文字の祖先であるされており、
アラビア文字などのアブジャド、インドのデーヴァナーガリー文字などのアブギダ、そしてラテン文字などのアルファベットの共通の祖先とされています。
原カナン文字
お次に紹介するのは原カナン文字です。
原カナン文字は紀元前15世紀から紀元前12世紀頃にかけて、現在のパレスチナ周辺で使われていたとされている文字です。
ヒエログリフから派生した文字であり、また原シナイ文字との共通点も多い事から、ヒエログリフと原シナイ文字双方の影響を受けて派生した文字であるという説があります。
この原カナン文字が後にアルファベットの祖であるフェニキア文字となり、
さらにフェニキア文字がアラビア文字などのアブジャドの祖であるアラム文字となり、
さらにアラム文字がインドで使われるアブギダの祖であるブラーフミー文字になる事で、
それぞれの音素文字の祖となりました。
原シナイ文字とともにおおよそ全ての音素文字の祖とも言われており、人類の文字の発展の過程を辿る際に重要な文字であると言えるでしょう。
南アラビア文字
https://www.weblio.jp/content/%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E6%96%87%E5%AD%97
お次に紹介するのは南アラビア文字です。
南アラビア文字は、アラビア半島南東部の現在のイエメンの辺りで使用されていた古代文字です。
原シナイ文字より派生した文字であると考えられています。
”南アラビア”という名前ですが、今日も使われているアラビア文字とは直接の関係はありません。
後にアラビア半島においてアラビア文字が普及すると、次第に南アラビア文字の使用者は減っていきました。
後にエチオピアで使われることになるゲエズ文字の元となった文字と言われています。
フェニキア文字
w1k0 – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=108020080による
お次に紹介するのはフェニキア文字です。
フェニキア文字は原カナン文字を更に扱いやすく改良した文字であり、紀元前1050年頃に整備され、地中海で海洋交易を行っていたフェニキア人の商人達によって使用されていた文字です。
文字の総数は22です。
フェニキア人は紀元前13世紀頃に地中海一体の海洋貿易によって栄えていた民族で、地中海沿岸地域で彼らの使用していたフェニキア文字が使用された結果、その地域でフェニキア文字が根付くこととなります。
特にギリシアで使われたフェニキア文字は、ギリシア語に適用させるためにギリシア文字として改良されました。
そしてそのギリシア文字が、後に西欧諸国で使われるラテン文字や、ロシアなどで使われるキリル文字へと発展していきます。
フェニキア人の交易路
Yom (トーク · 投稿記録) – 次の画像を基にした投稿者自身による著作物: ar:File:Ph routes.jpgen.wikipedia からコモンズに Akigka によって移動されました。, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1074993による
原シナイ文字、原カナン文字の流れを汲むフェニキア文字は、後の全ての音素文字の共通の祖先であると考えられています。
このフェニキア文字から直接発生した文字としては、ギリシア文字、アラム文字、古ヘブライ文字があるとされ、それらの文字が更に変化して、現在世界で使われている文字へと変化していきます。
アラム文字
https://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_middleeast_12.html
お次に紹介するのはアラム文字です。
アラム文字は、フェニキア人が使用していたフェニキア文字から枝分かれした文字です。
紀元前11世紀頃に内陸交易を行っていたアラム人によって使用され、アラム人が活動していたシリアやメソポタミアなど中東地域で根付いていきました。
そして、そこで根付いたアラム文字が、現地の言葉を表しやすいように改良され、後のアラビア文字やヘブライ文字などへと変化していきます。
更に東方へとアラム文字は伝播していき、古代インドのブラーフミー文字の元となったか、或いは影響を与えたとも言われています。
アラム文字は、それ以前にメソポタミアやバビロニアなどの中東地域に根付いていた楔形文字に代わる形で使用されるようになり、多くの国家で使用されましたが、6世紀頃を最後に使用されなくなります。
アラム文字はフェニキア文字同様、後の多くの文字の原型となり、現在使用されている文字のルーツの一つとされる文字です。
エトルリア文字
Sailko – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=51673403による
お次に紹介するのはエトルリア文字です。
エトルリア文字は、古代イタリアに存在していたエトルリア人が話していたエトルリア語を表記する為の文字です。
文字の歴史としては、フェニキア文字から派生したギリシア文字の内、西方ギリシア文字と呼ばれた文字から派生したものとなっています。
エトルリア人の国家であるエトルリア帝国がラテン人による共和制ローマにより滅ぼされると、文字もラテン人が使用するラテン文字が主流となり、エトルリア文字は使われなくなりました。
しかし、エトルリア文字がラテン文字に与えた影響も大きく、今日も世界で使われているラテン文字の生みの親の文字と見なせる文字であるようです。
ブラーフミー文字
M. Adiputra – Freeware font (Brahmi, Imperial Brahmi), CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16128528による
お次に紹介するのはブラーフミー文字です。
ブラーフミー文字は、古代のインドで使用されていた文字です。
今日のインドで使用されているデーヴァナーガリー文字や、バングラディッシュで使用されているベンガル語などが所属するブラーフミー系文字の祖先と考えられています。
更に、東南アジアで使われる事になるビルマ文字やクメール文字やタイ文字などの諸文字の元ともなりました。
また、子音文字と付加記号によって随伴母音を表わす音素文字であるアブギダの祖先とも言える文字です。
上記のアラム文字から派生した、または影響を受けたと考えられており、多くの共通点を有しています。
紀元前6世紀頃からインド地域で使われ始め、紀元前3世紀頃のインドの帝国であったマウリア朝の王であるアショーカ王の法勅文などに使用されています。
その後長らくインドで使用されていましたが、インドのイスラーム化などの社会の変化を経て、14世紀頃までには使用されなくなりました。
マヤ文字
お次に紹介するのはマヤ文字です。
マヤ文字は、メキシコ半島南東部に紀元前2000年ごろから紀元後900年ごろまで栄えていたマヤ文明で使用されていた文字です。
マヤ文字は800以上の特徴的な記号で表され、象形文字でなおかつ音節文字の要素を持っている文字です。
アメリカ新大陸に栄えた文明で使われていた文字である故に、ユーラシア大陸で発達したどの文字体系とも異なる特徴を持っています。
マヤ文字は画像のように正方形に近いマスに収まるように表記され、主字と呼ばれる大きく書かれる文字と、その上下左右に書かれる接字から成り立っています。
マヤ文明で盛んに使われましたが、マヤ文明が紀元後9世紀頃に衰退すると、文字も衰退していきます。
16世紀頃のスペインやポルトガルなどによるアメリカ大陸への入植後、キリスト教の布教の為古代マヤ文明の調査にあたっていたキリスト教の宣教師などにより解読が始められます。
その後長い時間をかけて解読が進められ、現在では現存しているほとんどのテキストが解読されているといいます。
アステカ文字
https://twitter.com/tomnir/status/896727761322102785
最後にご紹介するのはアステカ文字です。
アステカ文字は、15世紀から16世紀初めまでアメリカ新大陸の現在のメキシコがある場所に栄えていたアステカ文明で使用されていた文字でした。
それ以前に栄えていたマヤ文明で使われていたマヤ文字同様、ユーラシア大陸で発展したどの文字とも共通点が見られない、系統的に独立した文字です。
更に、言語として使用する事は出来ず、文字というよりはユーラシア大陸の文字の発展の最初期に現れた原文字(proto-writing)に近いものであるとされています。
その為、文字というよりも絵文字の方が近いと言えます。
アステカ文明で使用されていましたが、16世紀にアメリカ大陸にきたスペイン人のコルテス率いる征服者(コンキスタドール)にアステカ文明が滅ぼされると、アステカ文字を使用する人間はいなくなりました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
ここまでは、古代に使われていたものの現在では使われなくなった文字たちをご紹介しました。
冒頭にも述べましたが、歴史上の全ての文字を紹介するのは不可能と思われるため、メジャーと思われる文字のみピックアップしてご紹介しています。
続くpart2では、これらの文字から発展し、現代でも使われている世界の文字をご紹介します。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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