【歴史】歴史上の人物10人の意外な一面・エピソード集【歴史上の偉人に親近感が沸く逸話集】

勉強
この記事でわかる事

かつて活躍した歴史上の人物の、あまり知られていない意外な一面やほっこりするエピソードがわかります。

みなさんこんにちは、syuyaです。

突然ですが、歴史上の人物といったら皆さんは誰を思い浮かべますか?

カエサル、ナポレオン、徳川家康。

一般人である我々にとって、彼らはまるで物語の主人公のようで、同じ人間とは思えない事でしょう。

しかし、彼らもまた人間です。

彼らが悩みながらも試行錯誤を重ね、一生懸命生きてたどり着いた歴史上の行いを、我々は後の世から眺めているにすぎません。

彼らにだって我々と同じ、等身大の人間としての変わった趣味があったり、かけがえのない友人や恋人が居たり、目も当てられないやらかしをしたりしていたのです。

この記事ではそんな歴史上の人物の、歴史の教科書には載っていない側面をお教えします。

アレクサンドロス大王

アレクサンドロス大王

画像引用:雑学サークル様より

世界史上に残る偉大なカリスマ、アレクサンドロス大王

紀元前336年、ギリシアの北部に位置するマケドニア王国に生まれたアレクサンドロスは、父であるフィリッポス2世の鍛えた軍勢を率いて、東方の巨大な帝国であったアケメネス朝ペルシアに進軍。

皇帝であったダレイオス2世を破り、ペルシア帝国を支配下に置きました。

その後も更にインドまで進軍するも、兵の消耗を理由に撤退。

帰路の途中に病にかかり、紀元前323年に32歳の若さでこの世を去った、伝説的な王です。

彼の雄姿はカエサルやナポレオンなど、その後の英雄たちに多大な影響を与え続けていきます。

そんな彼ですが、実は日常的に我々が使っている日本語の言葉の由来に関係があったりします。

なんだか分かりますか?

それは、

ごちそうさま(ご馳走様)

という言葉です。

アレクサンドロスの勇名はアラビア、インド、中国を経由し、遠く日本にも伝わってきています。

その過程で

”アレクサンドロス→イスカンダル→スカンダ→韋駄天(いだてん)”

と名前が変わっていきます。

そして、韋駄天はその過程で仏教の守護神として祭り上げられるようになりました。

この韋駄天が釈尊(仏陀)の食事を集める為にあちこち走り回ったという仏教のエピソードから、ご馳”走”さまでした。という言葉が生まれています。

もちろん、実在したブッダことゴータマ・シッダールタと韋駄天ことアレクサンドロス大王の間には実際の接点はありません。

あくまで後の時代の仏教徒によって創作された説話の一種であり、その説話が日本に輸入されたというだけの事です。

遠く西洋の英雄にまつわる言葉を、現代の日本人が日常的に使っているとは面白いものですね。

他にも、彼は有名な哲学者アリストテレスの教え子でもありました。

アリストテレス(右)の講義を受けるアレクサンドロス(左)

wikipediaより

実はアリストテレスは優生学的な思想の持主であり、ギリシア人以外の民族”バルバロイ”は奴隷的であり、ギリシア人の支配下に置かれるべきと考えていました。

その思想は若きアレクサンドロスに影響を与えたといいます。

しかしそんなアレキサンドロスですが、異民族であろうとも相手が高貴な身分の貴婦人などであった場合は丁重に扱いました。

イッソスの戦い後、敵国ペルシア帝国の王であるダレイオス3世の母と妃がアレクサンドロスの軍に捕らえられますが、アレクサンドロスは部下に彼女たちに対して決して手荒な真似はしないようにさせ、最上級の敬意を持って接したと言います。

それを聞いたダレイオスは、万が一自分が負けたとしてもアレクサンドロスにならペルシア帝国を任せてもよいと側近に語ったと言います。

彼のカリスマ性が伺えるエピソードですね。

また彼は当時としては珍しくないバイセクシャルであり、部下であるヘファイスティオンとはいわゆる”そういう仲”であったという説が有力です。

ユリウス・カエサル

ユリウス・カエサル

wikipediaより

共和制ローマにおける第一回三頭政治の一角であるユリウス・カエサル

彼の名前であるカエサル”caesar”は、後の西洋諸国で”皇帝”を表す名詞として使用される程、後世に多大な影響を与えています。

そんな彼ですが、30代の頃に財務官の地位にあった頃、前述のアレクサンドロスの像の前で一人嘆きます。

偉大なアレクサンドロス大王は今の私の歳で世界を手に入れた。私は一体何をやっているのだ・・・

後の彼を知る我々から見るととても感慨深いエピソードだと思いませんか?

当然の事ですが歴史上の偉人とて最初から偉人であった訳ではなく、そこには我々と何ら変わらない等身大の人物像が見えてきます。

特にカエサルに関しては、様々な人間らしいエピソードが残っています。

シーザーは前髪が薄く、それを隠すために床屋と相談して作り出した髪型をシーザーカットと言います。

  シーザーカットの男性

画像の引用:60 Most Attractive Caesar Haircuts For Men – MachoHairstyles

この髪型は現代でも男性の髪型として人気です。

また、カエサルはお金と女性にだらしないことで有名であり、生涯でこさえた借金の額は天文学的な額となります。

具体的には1300タラント。

これは日本円にして720億円!

古代ローマ人の平均年収が約6万円と言った時代にこれですから、最早返す意思はなかったように思われます。

そしてカエサルの女性に関するエピソードとしては、一説には当時の元老院議員の妻の3分の1を寝取っていたとされています。

英雄色を好むとはまさにこの事。

個人的に、カエサルは皇帝にならずとも、いずれ暗殺されていたのでは?なんて思ったりしています。

ナポレオン・ボナパルト

フランス皇帝 ナポレオン・ボナパルト

wikipediaより

吾輩の辞書に不可能という文字はない

一時期ヨーロッパのほぼ全土を手中に収め、フランス皇帝となったナポレオン・ボナパルト

しかし、最終的にはイギリスをはじめとする他のヨーロッパの国々との戦争に敗れ、島流しにあった先の南太平洋の孤島で亡くなるという悲劇的な最期を迎えました。

そんな”英雄”ナポレオンにも様々なエピソードがあります。

先ず第一に彼の性癖についてです。

英雄ナポレオン、実はかなりの臭いフェチであったそうです。

彼は2回結婚しているのですが、最初の妻ジョゼフィーヌに宛てた手紙には

今から帰る、頼むから風呂には入らないでくれ

とつづられていたのだとか。

また、我々が現代において着ているジャケットの袖の部分のボタンは、ナポレオンが作らせたという説があります。

ナポレオンが極寒のロシアに遠征する際、兵士たちが制服の袖で鼻水を拭くのを嫌って、袖の部分に本来不必要なボタンをつけさたのが始まり。

その時のナポレオン軍の制服の名残で、現在のジャケットの袖にボタンが残っているというのです。

そんなナポレオンですが、指揮官としては世界史上1,2を争うほど優秀であることは、皆さんもご存じかと思います。

そんな彼が指揮官として何を一番大切にしていたかというと、それは部下との信頼関係です。

彼は皇帝になった後でも、自軍の末端の兵士にまで気さくに声をかけ、頻繁にコミュニケーションをとっていました。

兵士の悩み事などを真剣に聞いて、それに真摯に答えていたため、部下である兵士達にも絶大な信頼を寄せられていました。

有能な指揮官とは、人心掌握術にも長けていなければいけない事がわかるエピソードですね。

アドルフ・ヒトラー

ナチス・ドイツ総統 アドルフ・ヒトラー

無敵の太陽様より引用

第二次世界大戦を引き起こした独裁者アドルフ・ヒトラー

類まれなる弁舌と当時としては斬新な選挙手法で、第一次世界大戦後に疲弊していたドイツ人の心を掴み、選挙により合法的に独裁者となった人物です。

そして周辺国に侵略戦争をしかけ、人類史上類を見ない死傷者数となった第二次世界大戦を引き起こし、その敗戦直前に自殺を遂げた人物です。

そんなヒトラーの青年時代は、パッとしないありふれた絵描きであったことを皆様はご存じでしょうか?

ヒトラーが描いた絵

wikipediaより

彼の絵は専門家曰く、建造物に対する描写の緻密さは凄まじいものがあるが、人物描写は上手くなかったのだそう。

また古くからある古典主義や、イタリアルネサンスといった絵画手法の模倣に過ぎず、芸術家に必要な新進気鋭さといったものはあまりなかったようです。

そんなヒトラーの青年時代は美大に二度落ち、親の残した遺産と日々絵を描いて売って日銭を稼いで生活していた青年時代でした。

もしヒトラーが美大に受かり画家としての道に進んでいたなら、後の歴史は大きく変わっていたのかもしれないと思うと複雑ですね。

実はヒトラーが落ちた美大にその前々年、同時代の象徴派を代表するエゴン・シーレが受験して受かっています。

ヒトラーと同時代の表現主義の芸術家 エゴン・シーレ

しかしエゴン・シーレにとって美大は退屈な場所であったようで、すぐに美大を離れ別の芸術家の元へと弟子入りしました。

ヒトラーが入学したくてたまらなかったその美大も、天才エゴン・シーレにとってはつまらない場所だったというのがなんとも皮肉なものです。

そんなその頃のヒトラーと唯一無二の親友だった人物にアウグスト・クビツェクがいます。

アウグスト・クビツェク氏

wikipediaより

1908年にヒトラーと別れて以降、彼は指揮者や公務員として働いていたのですが、1933年にヒトラーが首相に就任した際に祝福の手紙を送り、ヒトラーもすぐさま返事を送りました。

1938年総統となっていたヒトラーと30年越しに再会し、思い出話に花を咲かせ、変わらぬ友情を確かめ合ったと言います。

ヒトラーがドイツ語で親しい相手に使う二人称”du”を使う数少ない相手が、このクビツェクであったといいます。

1945年、ナチスドイツの敗北が決定的となりヒトラーが地下壕で自らの命を絶った後、ドイツは無条件降伏を受け入れます。

その後、クビツェクは連合国軍に捕まり尋問を受けました。

尋問をした連合国軍兵士に、

何故総統となったヒトラーと再会した際に彼を殺さなかったか

と聞かれたクビツェクは

彼は親友だったからです。

と答えたそうです。

極悪非道な独裁者といえども、人間であることには変わりない。

彼にも私たちと同じく、唯一無二の気の合う友人が居たのだと分かる、そんなエピソードだと思いませんか?

結局、クビツェク氏は戦争犯罪とは無関係と判断され釈放。

戦後にクビツェク氏が青年期のヒトラーについて綴った回想録は、青年時代のヒトラーを知る為の資料としてとても貴重なものとなっています。

また、ヒトラーは現在もドイツに残る高速道路”アウトバーン”を作らせました。

国の交通網を整備するとともに、当時のドイツに溢れていた失業者を大幅に減らした、まさに一石二鳥の政策です。

またこの時作られたアウトバーンは、現在のドイツでも利用されている重要なインフラの一つです。

彼の行いを正当化するわけでは決してありませんが、人物を評価するのに一面だけを見るべきではないのも確かですね。

坂本龍馬

坂本龍馬

wikipediaより

幕末の土佐藩出身の武士、坂本龍馬

当時水と油とも呼ばれた薩摩と長州を結び付け、倒幕へと導いた功績は、まさしく偉人と呼ぶべき人物です。

そんな彼ですが、幼少期は気の弱い少年であり、いつも泣きべそをかいていたそう。

そんな彼を鍛えたのは3才年上の姉である乙女)という女性なのですが、乙女さんは身長174センチ、体重112キロという大変大柄な女性であり、また男勝りの性格であったといいます。

龍馬の姉、乙女さん

wikipediaより

そんな女性にみっちり鍛えられた龍馬少年は、青年期になると逞しい青年へと成長し、当時の剣道の名門、北辰一刀流にて免許皆伝を授かっています。

また身長も約175センチと、当時の日本人男性にしてはかなり大柄な体躯でした。(当時の日本人男性の平均身長は155センチ)。

お姉さんの乙女さんといい、高身長の血筋だったようですね。

そんな龍馬ですが、大変毛深い男性だったそうで、特に背中の毛が毛深かったのだそう。

この毛はなんと生まれた時から生えていたそうで、大人になるにつれてさらに毛深くなり、一緒に風呂に入った事がある勝海舟も証言しています。

また、その事を他人にからかわれると「これが龍馬たる所以だ」などと返したそうです。

そして、龍馬は極めて近眼でした。

現存している龍馬の写真は、いずれも目を細めた顔つきですが、一説には近眼のあまり目を細めるのが習慣となっていたためだと言われています。

当時はコンタクトレンズなどは無いため、とても不便だったでしょうね。

また龍馬とその妻お龍さんは、日本人で初めて新婚旅行に行ったカップルとされています。

寺田屋事件で刀傷を負った龍馬が、西郷隆盛のすすめで湯治をする事になったのがきっかけで、新婚旅行先は当時薩摩藩であった鹿児島の霧島市でした。

新幹線も飛行機もない当時、しかも江戸時代の幕藩体制においては日本国内の他の県(当時は藩)に旅行に行くというのは、現代で言う所の海外旅行に匹敵する、手間や労力やお金がかかったと思われます。

現代で言う所の、新婚旅行でハワイに行くような感じでしょうか?

西郷隆盛の口利きで、坂本夫妻は薩摩藩でVIP待遇で迎えられたそうで、新婚旅行をとても満喫したそうです。

モーツァルト

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

wikipediaより

『フィガロの結婚』『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など、現代にも残る数々のクラシックミュージックを残した神童、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

そんな彼が初めて作曲したのは、何と5歳の時。

その曲は、アンダンテハ長調K1aという楽曲でした。

これを5歳の時に作曲したというのだから、神童という評価は間違いではなかったようですね。

また、彼は幼少期にオーストリアの王宮に父と共に招待された時、当時同じく少女だった、後にフランスブルボン家に嫁ぎフランス革命により処刑されてしまうマリー・アントワネットと出会っています。

オーストリア王女(後のフランス王妃)マリー・アントワネット

wikipediaより

その時のモーツァルト少年は、あろうことかオーストリアの王女(当時)であるアントワネットに

将来、僕のお嫁さんにしてあげるよ

と言い放ったそうです。

流石神童はビッグマウスですね。

そんなモーツァルトですが、成人後はかなりの変態であったとされています。

彼はよく猥談をとばしたといいますが、その中でも特に尻と便に、並々ならぬ執着を燃やしていたのだそう。

彼が従姉妹のベーズレに宛てた手紙、通称ベーズレ書簡にはその執着がよく表れています。

快く仲直りをしてくれない? さもないと、ぼくの名誉にかけて、バーンと一発やらかすぞ! どうせきみは笑っているな―万歳(ヴィクトリア)! 僕らのお尻を和平条約調印のしるしとしよう!

~中略~

そう、ぼくのあれは元気です。二週間後にはパリへ立つけど、きょうもひとクソたれておこう。もし、そちらのアウクスブルクの町から手紙をくれるつもりなら、ぼくが受け取れるように、早く書いてね。でないと、ひょっとしてぼくがもう立ったあとだと、受け取るのは手紙のかわりに一通のウンチ。ウンチだ!

ベーズレ書簡より引用

天才の頭の中というものは、常人には理解できないものですね。

徳川家康

徳川家康

wikipediaより

日本人ならば知らぬ者はいないであろう戦国の三傑の一人にして、後に300年続く江戸幕府の開祖、徳川家康

鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス

という家康を表現した歌が残っているように、とても忍耐強く天下を取るチャンスを伺い、最終的に大阪夏の陣にて豊臣方を破り天下人となりました。

そんな家康にも、様々な面白いエピソードが残っています。

静岡県浜松市に”小豆餅”、そして”錢取”という地名があります。

変わった地名だなと疑問に思いますよね?

日本の地名というのは、必ずなにかしらの由来があったりするのですが、これらの地名の由来となったのは他ならぬ家康の行動でした。

当時の家康は、織田信長の下に仕える、一弱小武将に過ぎませんでした。

そんな家康がいる遠江の国(現在の静岡県西部)に、当時戦国最強とも言われた武田信玄の軍勢が攻め込みます。

家康は信長の加勢を当てにしますが、信長の軍勢もまた武田の猛攻を防ぐのに手いっぱいで、家康に兵を送れず、結果徳川軍は武田軍に惨敗します。

家康は命からがら敗走します。

そんな家康ですが、敗走途中に無性にお腹が減ってしまい、一人の老婆が経営する茶屋にて小豆餅を食べました。

その茶屋があった場所こそ、現在の静岡県浜松市中区の小豆餅なのです。

無事お腹を満たした家康なのですが、代金を払おうとした矢先、武田の追手が家康に迫りました。

慌てた家康は代金を支払わずに逃走。いわゆる食い逃げをしたのです。

逃げる家康を武田の軍勢と、お茶屋の老婆が追います。

そして家康は捕らえられました。

無論、お茶屋の老婆にです。

例え偉いお侍さんであっても、食べたのならきっちり代金を払ってもらう。

鬼気迫るお茶屋の老婆によって、後の征夷大将軍徳川家康が代金を支払わされた場所こそが、後の静岡県浜松市中区錢取なのです。

なんだかほっこりするエピソードですね。

そんな家康ですが、とてつもない健康オタクだったそう。

食生活にもこだわり、適度な運動を欠かさず、自分の手で薬を調合して飲むなどした結果、当時としては大変長寿であった75才まで生きる事が出来ました。

死因は食べ物の天ぷらに当たったであるとか、自分が調合した薬が胃がんを悪化させたであるとか様々な説があります。

なんにせよ、必死に困難に耐え下積みを続け最終的に天下をとった家康は、人生に一片の悔いなく生涯を終えられた事でしょう。

オットー・フォン・ビスマルク

オットー・フォン・ビスマルク

wikipediaより出典

ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク

プロイセン国王ウィルヘルム1世を補佐し、ドイツ統一を成し遂げた中心人物の一人であり、普仏戦争にてフランスのナポレオン3世を破った名宰相です。

そんな彼の身長は190センチ、体重は123キロとかなりの巨漢でした。

それにこの顔ですから、相当威圧感があったことでしょう。

彼は食事の際、手当たり次第に口に詰め込んで、それを酒で流し込むというとんでもない暴飲暴食の悪癖があり、それが彼の肥満を助長したのだと思われます。

しかしそんな彼ですが、当時としては十分長寿である83歳まで生きたと言います。

晩年はやはり体調を崩しがちだったといいますが、人に与えられた寿命の長さというのは不公平な側面もありますね。

1873年、プロイセンに日本の岩倉使節団が訪れた際、ビスマルクは使節団と会見をしています。

そして当時、幕府と新政府で二分した国をまとめ上げ、国を改革しようとしていた日本に対し、同じく統一を成し遂げたばかりで、英仏に比べたら後進国であったプロイセンの宰相ビスマルクは共感を覚えたのか、親身になってアドバイスをします。

ビスマルクの真剣かつ適切なアドバイスは大久保利通や木戸孝允、伊藤博文ら岩倉使節団の心を強く打ち、そのなかでも伊藤博文はとくにビスマルクの影響を強く受け、立ち振る舞いなどすべてビスマルクの真似をしていたため、しばしば”日本のビスマルク”とからかわれていたのだそうです。

岩倉使節団

wikipediaより

そんなビスマルクの青年期は、老年期とは真逆の放蕩三昧であったといいます。

当時のプロイセンにおける裕福な地主貴族の出身であったビスマルクは、ベルリン大学在学中には勉強そっちのけで当時のドイツの若者の流行りであった決闘に打ち込み、在学中に25回も決闘をしたといいます。

また社交界にもよく顔を出し、女性とも度々遊び、交際費を捻出するためにギャンブルに手を出し借金も作るという有様だったようです。

XPH308444 Otto von Bismarck as a Student, 1833 (oil on canvas) by Petri, Philipp (1800-68); Schloss Friedrichsruhe, Germany; (add.info.: Otto von Bismarck als Student; Otto Eduard von Bismarck, Count of Bismarck-Schoenhausen; Duke of Lauenburg; Prince of Bismarck (1815-98);); German, out of copyright

青年期のビスマルクの肖像画       

wikipediaより

泣く子も黙る鉄血宰相にも、若気の至りと呼べる時期があったようですね。

そして、ビスマルクは新しい物好きであったとも言われ、ビスマルクの肉声が当時発明されたばかりの録音機に残っています。

話している内容は、ラテン語で詩の朗読をしているのだそうです。

雑音がひどく聞き取りづらいですが、とても威厳のある声であることは分かりますね。

大久保利通

大久保利通

wikipediaより出典

維新の三傑の一人にして、維新後の政府の中心人物であった大久保利通

同郷の薩摩藩出身で、親友である西郷隆盛と比べると影が薄いと思われがちですが、彼もとてつもない人物だった事は間違いありません。

維新を成し遂げた後の明治新政府内での彼の立場は、彼が暗殺されるまでゆるぎないものでした。

寡黙で他人を威圧するオーラをまとっており、例え気が強い人物であっても大久保に見据えられただけで委縮して何も言えなくなってしまったと言います。

また頭が切れ理路整然と相手を論破する事から、彼と面と向かって口論しようとする者は誰もいませんでした。

明治新政府の会議において、大久保の足音が近づいてきただけで、その場にいる皆が緊張し背筋を伸ばしたといいます。

まさに”新政府のドン”と言った感じでしょうか。

しかし、そんな彼ですがお茶目なところもあったようです。

彼はとてつもないヘビースモーカーであり、日本で初めて栽培されたたばこである指宿煙草を昼夜問わず吸っていたそうです。

ちなみに彼の子孫(玄孫)であり、第92代総理大臣であった麻生太郎氏も愛煙家であることから、血は争えないのかもしれません。

第92代内閣総理大臣 麻生太郎氏

画像引用:https://www.jimin.jp/member/100551.html

また現存している写真ではわかりませんが、彼は頭頂部が禿げていたのだそうです。

どれだけ公務が忙しくとも客と会う前には、鏡の前で必死にポマードで髪をセットしハゲを隠してからでないと人前に現れなかったといいます。

そんな大久保利通ですが、明治維新の中心人物として絶大な権力を持った後も、お金には驚くほど潔白でした。

現代でも並いる政治家のように、公金で私腹を肥やすどころか、維新直後の財政難の政府の為に、逆に私財をなげうって政府運営資金の不足分を補ったといいます。

大久保が暗殺された後、彼がどれだけの財を蓄えていたのか興味津々であった民衆の考えとは裏腹に、大久保に残されていたのは、政府運営の為に大久保自らが方々に作っていた借金の山でした。

その額は莫大な額だったそうですが、生前の大久保の志を知っていた債権者たちは、大久保の遺族に借金返済の催促する事はしなかったそうです。

暗殺される直前、大久保は西南戦争で命を落とした盟友、西郷隆盛の生前の手紙を馬車の中で読んでいたといいます。

山岡鉄舟

”幕末の三舟”山岡鉄舟

wikipediaより出典

皆さんは山岡鉄舟という人物をご存じでしょうか?

幕末の幕臣であり、勝海舟、高橋泥舟と並び”幕末の三舟”と呼ばれた人物です。

しかし本人に名誉欲がなく、その手柄を勝海舟などに譲ったがために、あまり歴史には残らなかった人物です。

何をした人物かというと、坂本龍馬等の活躍により薩長同盟が結ばれ、幕府側が劣勢となった後に、西郷隆盛らと根気強く交渉し、主君である徳川慶喜の身の安全を保証させる代わりに、江戸城無血開城を成し遂げた人物です。

あの西郷隆盛をして、

金もいらない、名誉もいらない、命もいらないという人は始末に困るが、そのような人物でないと天下の偉業は成し遂げられない

と評された人物でした。

彼を一言で表すならば”完璧超人”です。

まず写真を見てわかるように、現代でも通じそうな精悍な顔立ちをしたイケメンです。

そして剣道・書道・禅道の達人でした。

中でも書道は、人から頼まれれば断らず書を書いて渡していたため、鉄舟の作品は後世に多く残っています。

山岡鉄舟の書

長谷川画廊様より引用 https://www.nagaragawagarou.com/index.html

見て分かる通り、信じられない程の達筆ですよね。

そして身長がなんと187センチメートルもありました。

これは当時の日本人男性の平均身長(155センチメートル)はおろか、現代の日本人男性の平均身長(172センチメートル)をもはるかに上回り、それどころか現代で一番身長が高いオランダ人男性の平均身長(184センチメートル)よりも高いのです。

当時の人たちからすれば、凄い威圧感だったでしょうね。

彼の死因は胃がんだったのですが、胃がんによる激痛にもかかわらず、明治天皇の御所の方角を向いて座禅の最上級の形である結跏趺坐をしながら果てたといいます。

結跏趺坐

画像引用:https://soto-hse.jp/recommend/manner.html

当然のことながらこの時代は痛み止めなどありません。

そんな中、胃がんの激痛に絶えながら座禅を組みながら果てるというのは、どれほどの精神力が必要なのでしょうか、想像だに出来ません。

超人というものは、臨終に際しても超人然としているものなのですね。

まとめ

いかがだったでしょうか?

この記事では歴史上の人物の様々な側面をご紹介しました。

冒頭にも書いた通り彼らとて人間。

教科書に載っていないちょっと変わった趣味や意外な側面というものも当然あるものです。

彼らのこういった人物史を調べてみるのもおもしろいのではないでしょうか?

ここまで読んでいただきありがとうございました。

syuya

自称”世界最弱の男”
何もかもを諦めていた男が、一念発起しブログを開始。
日々くじけそうになりつつも、読書から学んだ事や考え方などを日本中の人々と共有するべく、日々ブログを続けています。
よろしくお願いいたします。

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